春と運命についての談義

 身を切るような厳寒の冬が終息を告げ、空気が穏やかに温かくなってくると、自然と心も晴れやかになってゆく。
 その浮ついた心が、抑圧された些細な欲望を具現化させてやろうと思い立ち、軽微な犯罪が増えるのであろう、と探偵はいつか呼んだ犯罪心理学の論文を思い出していた。些か極論であるとは思うが、寒さに耐え気温の上昇と共に身体活動に適した環境になれば、思考よりも体が先に動くタイプの人間には、そういった行動原理が働くのかもしれない。何れにせよ、単純かつくだらない類の犯罪だ。警察が取り締まればすむ話だろう。と、探偵は一旦思考を終わらせる。そんな事を考えてしまうほど、要するに探偵は暇だったのだ。暗澹たる思考の淀のようなものが見に纏わり着くのを振り払おうと努力はするが、それは日増しに探偵の心臓を蝕むような錯覚さえ起こる。やがて数日も経たないうちに、この淀は思考を停止させてしまうだろう。そうなったら、気鬱が全身を支配し動く事さえままならくなるのが、事件の無い日々の探偵の堕落振りだ。
「春だね…」
 思考終了と同時に、向かいの椅子に座る同居人が、新聞を折りたたみながら呟いた。
 本日、ドクター・ワトソン診療所は休診らしく、いつも勤勉に患者の診療にあたる医師は、椅子の上で眠たそうな表情を浮かべ窓のほうをぼんやりと眺めていた。
 年明けから流行だした感冒のせいで、この医師は休日返上で往診に駈けずりまわっていたのだ。
 それが先週あたりからやっと峠をこえ、今日は休診となったらしい。
 休診となった医師は、冷めたであろう紅茶を啜りながら、やはりぼんやりと窓の外を眺めている。
 そして、次の瞬間に呟かれた医師の言葉に、探偵は手にしていたパイプを落としそうになった。

「…春風と共に、僕の運命の女性があらわれないかなあ…」

「ワトソン君…」
 紅茶を飲んでいたら、盛大に噴出していただろう。
 あまりに非現実的な言葉に、探偵は盛大に溜息をついて見せてから、芝居かかった動作で額を押さえた。
「春風が吹くから女性が現れるわけではない上に、君は季節に左右される運命で構わないというわけか」
「そういう意味で言ったわけじゃないだろ」
 探偵の揚げ足取りに、ムッと表情を見せる医師は、次の瞬間にはがっくりと肩を落として序に頭も落とす。
「だって、僕だっていい年齢なんだぜ。医師がこの年齢で独身だっていうのは、よほど僕自身に致命的な欠陥がありますと言っているようなものじゃないか」
「君は年齢で結婚をするのか」探偵は鋭く言った。「それと、致命的欠陥の有無は僕には分からないが、もしかしたら女性から見て結婚には相応しくない欠陥があるのかもしれないと、君は考えているのだね」
「欠陥、欠陥、言うなー!」
 自分の発言を棚にあげて、医師は悲鳴のような声をあげた。「でも、やっぱりそうなのかもしれない…童顔で紳士らしくないし、金髪だし、優男だし、競馬はやめられないし、撞球は下手だし…君もそう思っているだろう?」
「僕は女性ではないから、なんとも言えないが、一般的にはそうかもしれないね」
 探偵の言葉に、ズーンという効果音がつきそうなくらいに落ち込む同居人を見て、探偵はパイプをくわえなおす。
 優しすぎる印象を否めない、この同居人の外見は確かに頼もしさを感じさせない。
 だが彼の良さは、外見のみでは語れぬ部分にあることを、本人は知っているのだろうか。
「まあ、君自身の事はおいといて」
あまりに深く沈みこむ同居人が面白くなってきたとはゆえ、このままでは立ち直るのにも時間がかかってしまうだろう、と判断した探偵は、話題の転換を図ることにした。「その運命の女性とは、どんな女性なんだね?」
「え?」
「”え”?」
 翡翠色の目を見開いて探偵を凝視する医師の表情は、ぽかん、だとか、きょとん、とか言った類のものだった。
 まさか、”運命の女性”の実像を思い描くこともなく、ただひたすら願っていたのではないか。
「いやあ、”運命の女性”の実像なんて思いもしなかった」
 探偵が危惧していたことを、医師はさらりを口にする。「でも運命の女性なんだから、会えば分かるよ」
「どうして」
 指摘…というよりも探偵の間髪入れぬツッコミに、医師はシドロモドロで、
「それは…運命の血が騒いで…」
「ほう、それは静脈かい?それとも動脈かい?」
「じょ、静脈だよ!静脈血が沸騰したように騒ぎ出すから、運命だとわかるんだっ!」
 自棄糞で医師とは思えない発言を叫ぶと、ワトソンは、「あ!」と短く叫んだ。「そうだ、運命というのなら、あったよ、運命的な出会いが」
「………ほう」探偵は興味なさそうに、ソファーの背に自分の体を沈めなおす。「そりゃ、結構だ」
 小さく息を詰めてから、探偵は「それで」と、嫌に甲高い声で尋ねた。「その運命的な出会いのお相手は、今、どうしているんだ?」
 挑発的な探偵の台詞に、医師は笑いながら、探偵の方を真っ直ぐに見つめ、

「何言っているんだ、君だよ」

 事も無げに言ってくれたのだ。
 探偵は親友の言葉に、一瞬間言葉に詰まり、そして慎重な面持ちで口を開く。
「何だって?」
 開いた口からこぼれた言葉は、それ以上続かない。
 その言葉の意味の重大さを、彼はわかっているのかと、思わず問い正しくなる。
 だが、医師は勿論その重大さなど一つも思い当たることなく、無邪気な笑顔で説明するのだった。

「僕と握手をしただけで、僕が軍医であること、そして従軍先まで当ててしまった…あの時は、静脈血が沸騰したように騒ぎ出したよ!」

 それは驚いただけだろう…と探偵は呆れつつも、目の前の同居人の表情に笑いを零す。
 いつの間にか、自分に纏わりついていた淀は、陽の光に当たったかのように、消えうせていた。
 面白い友人だと思っている。大切な親友だと思っている。
 この大英帝国の人口を思えば、この相棒に出会えた事は、まさに運命だと言っても過言ではない、と。

「君の運命は、ずいぶん安っぽいところに転がっているんだねえ」
「うるさいー!とにかく、運命の相手に出会えば分かる事が、君で実証されたんだ!どうだ!」
「…”どうだ”…て」
「だから」
 医師は立ち上がると、帽子と杖を探偵に押し付ける。「僕の運命の相手を探しに、散歩しよう!」
「………………。」

 さすがの探偵も、それには噴出してしまった。
 まったく、この相棒ときたら。
「わかったよ、ドクター。僕は、君の運命の相手の品定めでもすればいいのかな」
「黙って祝福をしてくれればいいんだよ!」

 コートを着込み、手袋をして杖を手に。
 帽子を被り通りへ出ると、どちらとも無く腕を組んで、親友同士は雑踏にまぎれて歩き出す。

 二人で、運命を、探し出しに。



2011.03.10


※そして、事件を探し当てちゃうのは、お約束(笑)