憧れていたこと


 天才外科医の診療所の留守を守る頼もしい助手である少女は、時々、トンデモナイ事を要求する。
 今日も、新年の年明けから、少女はトンデモナイ事を言うのであった。
「ちぇんちぇーピノコの指、ほちょくてながくちてー」
「………なんだと?」
 お雑煮を啜る天才外科医は、目の前の少女の言葉にお雑煮を食べる手を止める。  味は昆布と鰹節に鶏肉を加え、大根、にんじん、銀杏の入ったそれは、少女が辰巳医師の母親の元へわざわざ出向いて習い教わった関東風のものだった。
「駄目だ」
「えー!」
 天才外科医の即答に、少女は抗議の声をあげる。「なんれー!体を大きくれきないんやから、指ぐらいいいじゃなのよさー!」
「駄目なものは、駄目だ」
 再び、コクのあるダシを啜り、天才外科医は餅を箸で摘まむ。「お前の指は、生身なんだ。お前の本当の指なんだから、大事にしろ」
「んー」  少女は自分の指を見詰め、撫で摩りながら唸っていたが、やがて「うん」と笑顔を向けてきた。
「そうする」




 それから半月ほどたった頃、岬の診療所に来客があった。
 この寒いのにハーレー・ダビッドソンを駆る、死神の化身。
「帰れ」
「…”あけましておめでとうございます”って言うのが、礼儀じゃねぇのか、先生」
 毎度のことに呆れ半分の死神に、天才外科医は不機嫌オーラを全身から燻らせる。
 だが、やはりそれを意に介せず死神は「お嬢ちゃんに、頼まれた」と紙袋を天才外科医へ手渡した。
「中身は」
「楽譜」
「…なに?」
 聞き慣れない単語に、天才外科医は力いっぱい眉間に皺を寄せる。
 その表情をみて、死神は盛大に息を吐いてから「去年の暮れだったか」と説明をはじめた。「お前さんが、UKに行ってた時、お嬢ちゃんからラインで、その楽譜を持ってないか聞かれたの」
「貴様…いつの間にピノコとそんな仲に…」
「そこに食いつくなよ」死神は言った。「俺はピアノ楽譜は持ってねぇから。それはユリのだよ」
「わざわざスマンな、とユリさんに伝えてくれ」
「俺には?先生」
「黙れ、死神」
「あー!ろくたー!あけおめことよろー!」
 買い物袋を下げた少女が、笑顔で割り込んできた。「ふたりとも、玄関でなにちてるの?」
「今、キリコが帰るところだ」
 天才外科医がさりげなく死神を追い出そうとするが、少女は「折角だから、お茶のんれ?」と誘ってくれたため、死神と天才外科医はリビングで対峙することとなった。
「まったく、出来た奥さんだよな」
 笑いながら伝えれば、天才外科医は殺気の籠った視線で死神を射る。
「なんで、ピノコは貴様に楽譜を強請ったんだ」
「さあ?先生は音楽に疎いからじゃねぇの?」
 リビングで無差別格闘技戦が始まる前に、少女はお盆に紅茶をのせてあらわれた。
「もーお正月なんだから、おとなちくちてー!」
 小さな口を尖らせて少女は二人に注意を促す。
 それから、ささやかな午後のお茶会となった。死神は少女へ目的のものを渡すと、花開くように少女は破願してみせた。
「わあ!ろくたー!あいがとー!」
「どういたしまして」
「あいがとうついでに」少女はもじもじしながら「ろくたー、この曲、弾いてくれゆ?」
「えー弾けるかな…最近、ピアノは弾いてないんだよなあ」
「そこを、おねがいちます!」
 少女が手を合わせて、お願いをする。その背後で、天才外科医は”さっさと弾いて帰れ”と無言の圧力をかけてくる。
「失敗したら、笑ってくれよ?」
 死神の化身は、優雅な仕草でピアノの椅子に腰かけると、そのアップライトピアノの鍵盤を優雅に弾き語った。

「…うん、やっぱり、この曲らった」
 死神の奏でる旋律を聞きながら、少女が嬉しそうに呟く。
「ピノコ、知っている曲なのか?」
 死神の言う通り、音楽に疎い天才外科医が尋ねると、少女は「うん」と頷いた。
「この曲ね、ねーたんが弾いていたの」少女は言った。「すっごく、キラキラしている曲れしょ?音なのにキラキラしてゆの」
「ああ」
「ピノコね、自分で弾いてみたかったの。この曲を、自分れ弾いてみたいって思っていたのよさ」
 腫瘍の中で、ずっと聞いていたから。
 少女は笑っていた。笑顔の告白であった。
「…だから、指を細く長くしてほしいって言ったのか」
「ちょ。らって、この指らと弾きにくい…」
 少女は自分の指を見詰める。幼く丸みを帯びた短い指。
 けど、だけど。
「自分の指で弾かないと、ね?がんばゆ!」
 指で握り拳をつくり、少女はガッツポーズを作ってみせた。



キラキラ星変奏曲
モーツァルトが1778年に作曲したピアノ曲
原題はフランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲。

-終-

2015.1.11