影の天才


   速報を聞いたのは、営業中。移動に使う社用車のカーラジオからであった。
 日本人の名前の後に、まるで付け足しの様に言われた名前。
 思わず出た「えッ…」という俺の呟きに、同じ営業の先輩が「知り合いなのか?」と聞いてくる。
「あ、いえ…ほら、ドクターシュタインと言えば有名じゃないですか」
俺は、慌てて答えた。「腹腔鏡手術とか、これから開腹せずにすむのなら、いいなあ、と思いますよ」
「…間は本当に海外の医療情報に詳しいな。さすが、帰国子女だな」
 先輩のやっかみの入った言葉に、間 影三は愛想笑いで返すしかなかった。


 今日は遅くなると妻に電話を入れ、間は医科大学病院へと向かう。
 目的は受診ではない。待ち合わせだ。
 従業員通用口に立つ壮年の男性の姿を見つけ、間は慌てて走る寄る。
「す、すみません!本間先生!」
「いや、私もいまところだよ」
 本間は笑顔をみせ、そして当たり前のように従業員通用口から中へと入る。
 向かうは、病棟や診療部ではなく、研究棟。
 広く、長く、そして暗い廊下を歩きながら「仕事は、順調かね?」と本間は尋ねてくる。
「ええ、まあ」
 間は笑いながら「日本語で報告書を作成することが、一番難しいですね。僕にとっては」
「何なら、ウチの病院に来てもいいんだがね」
 心配そうに提案する本間の表情は、優しい。まるで肉親のように気にかけてくれる事がとても有難いのだが。
「僕は、大丈夫ですよ」間は言った。「製薬会社の営業も、なかなか楽しいんですよ。先輩方もよくしてくださいます」
「なら、安心だが」
 何か言いたそうであったが、本間は結局はその事について深く言う事はなかった。
 恐らく、心配をさせているのだろう。
 少年時代に渡米して以来、数十年間、日本から遠ざかった生活をしてきた間にとって、日本は母国とはもはや言い難かった。
 日本における常識とされるしきたり、言葉使い、漢字、熟語。
 それらをカバーすべく勉強をしてはきたが、それでも、数十年というブランクは埋められなかった。
 加えて、間は研究医として大学、病院、そして国家の秘密裏のプロジェクトに参加するという、一般とはかけ離れた経歴の持ち主であった。
 正直なところを言えば、USAでの生活の方が、間には楽だ。
 そうせずに帰国したのは、妻の「黒男は日本人である事を、教えなくちゃね」という言葉の為である。
 薬品会社の営業という職を選んだのは、好奇心と最新の臨床薬理の情報を得る為だ。
「ドクターシュタインが、ノーベル賞を受賞するのは、知っているかね?」
 本間の問いかけに、間は思わず笑ってしまった。「知ってます。また、新しいモーニングを新調するのでしょうね、シュタイン博士は」
 シュタインは秘密裏のプロジェクトにおける、間の研究のリーダーであった。
 もう、数年前の出来事が、妙に懐かしい。
「…済まなかったね」
「え?」
「間クン…本当に済まなかった」
 本間は間を真っ直ぐに見ながら、凛とした声で謝罪を述べる。
「あの研究を、私は君の名前で発表したかった。私だけではない。クーマも、クロイツェルも、ドクタージョルジュも…核となるものは、君が組み立てたものであるのに、私たちは、君を表舞台に引き出してやることができなかった」
「いや、そんな…仕方がない事ですよ!」
 謝罪を受け、間は慌ててしまった。
 慌てるあまり、頭が真っ白になり、うまく日本語が出て来ない。
「well..it..」と口の中で単語を転がしてから、日本語で伝える事を諦めたのか、間は英語で言葉を紡ぐ。
  「I am nameless. Therefore the one that Dr. Stein announced is persuasive. Because it is to have depended on Dr. Stein from me. In addition, I get many assenters and establish technical safety and trust simply because it is Dr. Stein and am connected in sustaining itself for much life. Therefore I do not need to be in the front stage」
「君は無名だから、シュタイン博士が発表した方が説得力がある。それは君からシュタイン博士に依頼したことでもある。それに、シュタイン博士だからこそ、多くの賛同者を得て技術の安全性と信頼を確立して、多くの命を生きながらえる事に繋がる。だから、君は表舞台にいなくてもいい」
 本間は、間の言葉を日本語に置き換える。
 そうです、そう言いたかったんです。と、間が膝を打つのを見て、本間は笑いを零した。
「なら、一から始めるとしよう、間クン」
 辿り着いた研究室の前で、本間は言った。「紹介する彼は、君と似たようなところがあるから、きっと気が合うよ。医工学研究生の高野君だ。君のニューヨーク時代の論文に惚れ込んでいるらしいから、暇な時に来てあげるといい」
「へえ…なんだか、照れますね」
 スーツのネクタイを緩めながら、間は研究室のドアを開けた。



「…いや、それが、頭のいい学生でさ。話したら止まらなかったんだよ…」
 間の言葉に妻のみおは「ふーん」と面白くなさそうな表情だ。「その結果、明け方に帰宅したってわけね」
「今日は日曜日で休みなんだし、勘弁して下さい」
 怯えながら謝ると、みおは「いいけど」と言った。「今日、黒男と西部遊園地に行くんじゃなかったの」
「行くよ。今から準備する」
「寝なくて大丈夫?」
   訝し気な妻の表情に、間はぶんぶんと頭を立てにふる。「大丈夫。昔は5日ぐらい寝なくても平気だった」
「昔って…影三…もう三十路の曲がり角の体力下り坂の自覚はした方がいいよ」
 ぐさり。図星に心臓を貫かれる三十路の体力下り坂は、その予言を3時間後には体感することとなる。

「ぱぱー次はオクトパスに一緒に乗ろう!」
「…ちょ…黒男……分かったけど…5分休ませろ…」
「えー!!さっきから休んでばっかじゃん!ジジイみたい!」
「ジジイ……?…おい、親をジイサン呼ばわりするんじゃない」



◇◇



 20数年後。  マカオの世界有数の医療企業がスポンサーである研究施設と隣接する居住棟に、間は居た。
 衰弱し体力が落ちてきた間は、床上の人であることが増えた。
 妻である蓮花は、間が企画したプロジェクトの公開実施を視察に行き、昨日から留守だ。
 娘の小蓮が、自分も旅行へ行くからと告げに来てくれた。
 気を付けてと見送り、間は、新聞を見、そしてテレビをつける。
 ちょうど、ノーベル賞の授賞式の中継がはじまったところであった。
 その光景を眺めていると、ドアをノックする音が響く。
 この、ノックの仕方は。
「今、いいかな?間クン」
「ドクタージョルジュ。来ていたんですか」
 入室してきたのは、臨床薬理の神と呼ばれる研究医師、エドワード・ジョルジュ博士であった。
「具合は、どうなんだ」
「調子はいいですよ、少し、体力がついていかないだけで」
   笑ってみせれば、ジョルジュは、無理に笑わなくてもいいと言う。
 そして、テレビの画面を見た。
「ここ数年、日本人の受賞が続いているな」
 ジョルジュはノーベル賞の事を述べる。
「ドクタージョルジュも受賞すればよかったのに」間は笑いながら。「クロイツェル博士が言っていましたよ。嫌がらせなのかって」
「メンドウは嫌いなんだ」
 数年前であるが、クロイツェル博士が生理・医学賞を受賞した。微生物に関するものだが、もとはジョルジュの研究だ。
「それより、今回の医学・生理学…影三…君も絡んでいるだろう」
 ジョルジュの言葉に、間は「昔の事ですよ」と答える。「日本にいたころ、本間先生の紹介で、彼の研究に少しだけ携わった事があるんです」
「…やはり、な」
「よくわかりましたね」
「分からなかったら、私たちは2流だな」ジョルジュは言った。「あの再生医学の研究…核となるところは、君が言い続けていた奴じゃないか」
「形にしたのは、彼ですよ」
「……謙虚だな…」
 静かに、ジョルジュは画面を見る。テレビには、にこやかな笑みの、高野博士がうつしだされていた。

-了-

2015.12.12