小休憩を貴方と


   白木の窓枠に手をかけて、その扉を押し上げれば、気持ちの良い風が少し先の海原から吹いてくる。
 その潮の香りを充分満喫してから、彼は窓際に自分で置いた椅子に腰かけた。
 手には、古びた手紙。
 彼は、この窓際でこの手紙を読むを好んでいた。
 手紙の白い便箋はすでに黄ばんでいて、長い年月を匂わせたが、彼はこの手紙を、とても大切に扱っていた。
 毎日、何度も、何度も、読み返す。
 それが彼にとっての至福の時間なのだ。
 便箋に書かれた、美しい文字を目で追う彼は、時折笑い、時折黙り、そして、涙を流す。
 その涙を拭く事を、彼はしない。
 読むこともやめない。
 その文字を愛で、眼で追う。
 その手紙から広がる、相手への思慕と思い出に浸り、失われた時間を胸に馳せる。
 相手との会話んであるのだ。一方通行であるはずのそれは、相手との飽くなきお喋りであるのだ。

 手紙を読み終えたタイミングで、男は声をかける。
 手には、彼の好きな、甘いココア。

「影三、お茶にしないか」

 その声に、彼はゆっくりと振り返る。
 そして手紙を丁寧に封筒にしまい込んで、白木の窓枠に置いた。
「ありがとうございます」
 マグカップを受け取りながら、彼は礼を述べる。
 男は彼の傍に椅子を運ぶと、一度部屋を出てから、自分の分の珈琲が入ったマグカップと焼き菓子がたっぷり入った木の椀をを持参する。
 彼は差し出された焼き菓子を一つ摘まむと、口に運んだ。
 心地よい噛み心地と、優しい甘さが口に広がる。
 まるで、貴方みたいですね、と言葉にしようとして、それを飲み込んだ。
「おいしいかい?」
「おいしいです」
 尋ねられて、彼は即答した。
 それは嘘ではなかったし、何より、何も言わない事で男が少し不安そうな表情が見えたからだ。
 暫しの沈黙が訪れるが、2人にそれは苦痛ではなかった。
 生前であれば、自身の研究成果についての議論をしあったものだったが、それも遠い昔の事だった。
 
 海原の臨めるこの邸宅は、彼の息子の住まう診療所によく似ていた。
 はじめて訪れた時は、この邸宅内を歩き回り、息子と妻の名前を大声で呼びながら、探し続けていた。
 声が枯れ、足が痛み、腕が重くなっても、彼は探し続けた。
 そして、彼の名前を呼び、彼の妻からの手紙を差し出してくれたのは、この男だった。
 男は最初から、彼の背後にいたのだ。
 だが、彼はそれに気づかなかった。
 前だけを見続け、歯を食いしばり、己の感情を押し込めて茨の道を這い続けた彼は、背後を振りけることなど決してしなかったのだ
 男はそのことを誰よりも知っている。
 だから。
 死して尚、息子と妻を案じ続ける彼に男は声をかけることができなかった。
 納得しなければならなかったのだ。
 残酷な時間は長く、諦める事を知らない彼を見続ける事が、男の罰であるとさえ。
 だから。
 彼が立ち上がり、そしてゆっくりと振り向いた時。
 驚きから表情が僅かに緩み、口から発せられた言葉が、どんなにも。





「…エド……お会いしたかった……」
「影三。みおちゃんからの手紙を、私が預かっているよ」






 彼の妻はすでに生まれ変わっていた。
 今度こそ幸福な人生であることを彼は願い、そしてその手紙を読む。
 それは妻から彼への、最後の手紙であるのだ。
 男は、その手紙の内容を知らない。

 いつからか、彼と男は一日の終わりに散歩へ出かけるようになっていた。
 海原に沈む夕日を2人で眺め、星が頭上を埋め尽くす時間まで。
 その星空は、彼らの知る星空ではなかったが、美しい彩は変わらない。
「たとえば、だよ」
 不意に男が口を開く。彼は、なんですか?と尋ねた。
「たとえば、今度生まれ変わるとしたら、私は君の兄になりたいな……なんて思うんだよ」
「俺の、兄…です、か?」
「そうすれば」
 男は彼の顔を見ずに、言う。「君を守ることが出来るじゃないか。何があっても、兄弟であるなら、その理由付けに苦労もしない」
「いや、別に守られる気はないです」
 ばっさりと。
 彼の言葉に男は、がくりと肩を落とす。
「俺が兄ならいいですよ」
「え?」
 彼の言葉に男は顔をあげる。彼は悪戯を思いついた子供のような表情をしていた。
「俺が、エドの兄になれるなら、兄弟でもいいですよ」
「弟に守られるのは、いやじゃなのか?」
「だから、なんで、守る、守られるという話になるんですか」
 彼は星空を見上げ、そしてはっきりと澄んだ声で言ったのだ。

「もう一度、兄弟として、共に同じ時間をあなたと過ごすのは、楽しそうだなって思いますよ」

 力強い言葉に、男は息を飲み込んだ。そして己の傲慢さに涙を流す。
 理由付けなどいらない。
 そうなのだ。彼とまたもう一度同じ時代同じ場所で人生を共有できたなら、そんな美しく嬉しく、楽しい事はないのだ。
「まあでも、俺はまた、みおと結婚しますけど」
「その時は祝福するよ、弟として」
 顔を見合わせて笑う2人は生前のようだった。
 心の底から願い、そして来世の人生を楽しみに思えてくる。

 その心境が訪れれば、次の輪廻がはじまる。
    
 

-了-

2021.5.21