離れてはいけない


 

 死神の化身から、天才外科医の助手の下へ。
 その切羽詰ったような----それでも死神の口調は、笑いを含んだのんびりしたものだった。----電話がかかってきたのは、異国の地で過激派が政府と武力衝突したと、テレビのニュース速報が流れてから、半日ほど経ってからだった。
 何故、その地に死神がいたのかは、この際置いておいて。
 元軍医という経歴を持つ彼が、天才外科医を国境近くの町の安宿まで運んでくれたのだと言う。

『銃弾が飛び交おうと、爆発音が連続して鳴り響こうと、お嬢ちゃんの先生はお構いなしなんだよねえ』

 危機感がなくて、困ったよ。
 そう言う死神に、助手は天才外科医の容態を尋ねた。
 少しの間、沈黙が電波にのせられる。
 

 安全の保障された国まで、運ぶと死神は言った。
 だがそれよりも早く電話は切られたため、死神はこの安宿に足止めさせられた。
 半日ほどで現れた彼女を見て、死神は正直驚く。
 いや、もともと行動力はある少女だった。
 だからこそ、か。
「ドクター、本当にありがとう」
 彼女は丁寧に頭を下げる。濃い目にいれた紅茶のような色をした髪が、さらさらと揺れていた。
「とりあえず、俺は隣にいるから」
 死神はそう告げて、部屋の外に出る。
 安宿であるから、壁に耳を当てれば中の会話ぐらい聞こえるだろうが、そんな無粋な真似はしない。
 自分で巻いた紙煙草をポケットから摘み出し、口に咥えた。
 羨ましい、とは思わない。
 だが、天才外科医のために頭を下げる彼女を、少し妬ましく思ったのも事実だ。
「…無いもの、強請り…」
 ぼそりと、死神は呟きながら煙草に火を点す。




 死神がドアの外へ出てから、彼女は粗末なベッドへと近づいた。
 真っ白な包帯を頭部に巻いた天才外科医は、微動だにせず、横たわっている。
 包帯は、ところどころ紅が滲み、外傷箇所を示していた。
 彼女は小さく息を吐くと「先生」と声をかける。「寝たふりは、おしまいにしてよのさ」
「………眼を綴じていただけだ」
 掠れた声。
 天才外科医は言い終えてから、眼を開く。
 そして、助手の彼女のほうへと視線を向けた。
「どうして来た」彼は言った。「ここは危険区域だ。お前が来ていいところじゃない」
「だったら、心配なんかさせないでください」
 彼女は、天才外科医を見下ろしていた。
 威圧的ではない。
 ただ、その表情は無く、大地色の瞳が優しく見下ろすのだ。
「…ピノコ…」彼は半身をゆっくりと起こす。「俺は、お前の身が------」
「私を治療できるのは、先生だけなんだから」
彼女は言った。凛と響く声で。「だから、絶対に帰ってこないと、困る…」
「そうだな」
 くしゃりと、彼は紅茶色の柔らかな髪の毛を撫でた。
 そして、小さく微笑む。
「お前を残して、消えたりなんかできない。お前は私の助手だからな…お前がいないと俺が困る」
「そうだよ!」
 くしゃり。今度は彼女の顔が歪む。
 ポタポタと落ちる涙は、安宿のシーツを濡らしていた。
「先生には、ピノコがいないと、駄目なんだよ!」
「…すまない」
 引き寄せるよりも早く、彼女の方が天才外科医に抱きついていた。
 勢いあまって二人はベッドに倒れこむ。
 脇腹の銃創が鈍い痛みを訴えるが、構わず、天才外科医は彼女の背中に手を回した。
「…怖い思いをさせたな…」
 天才外科医の言葉に、彼女は彼の胸の中でコクコクと頷いていた。



-完-

2010.11.17(2019.1.14掲載)  不良保育士コウ