自宅


 この世で一番怖いものって、なあに?


 死神の化身の仕事は、穏やかに、その生命を摘み取る事。
 静かに手折る、その魂を己の胸に刻み込み、そして、身を隠す。
 …前に、捕まった。天才の嗅覚は、侮れない。

「キリコ、貴様ッ!」
 
 この場に、天才外科医があらわれたことに、少し驚く。
 ここは病院ではなく、介護施設。手術室などない、医療施設ですらない。
 なら、これは。
「死を望んだんだよ。早く、連れ合いの下に行きたいて」
「貴様のしていることは、人殺しだッ!」
 いつもの言葉を口にすれば、いつもの言葉を返してくる。
 胸倉をつかみ、奇跡を生む手が、俺の頬を殴りつけてくる。
 それは、いつも通りの。
 つまりこれは、彼からの合図。
「言葉に気をつけな、先生」
 胸倉を掴む手を、俺は掴み返す。「俺は、俺の信条で行っているまでだ。先生にとやかく言われたくないね」
「ふざけるな!」
「ふざけちゃいないさ」
 もう一度ふるってくる拳を避けながら、抉るように鳩尾へ一発。
 脂汗を流し、二つ折れになる体を抱えて、俺の車に放り込む。
 外は、薄っすらと、雪化粧を施されていた。

 数カ月間留守にしていた自宅は、まるで外と変わらない温度で、肌を刺す冷気であったが、俺は構わず奴の衣服を毟り取る。
 真っ赤に震える下肢を含んで解放してやれば、背を反らしながら、奴は声をあげた。
 自分のベルトを抜きながら、そういえば今日は、この国の陛下の誕生日であったと思い出す。
 一神教の神の子の生誕祭と数日しか違わないこの偶然は、なんとも不思議なものだ。
「…お前…ッ!…集中、しろぉ…」
 ぎらりと睨む赤い視線に、俺は小さくため息を吐きながら、はいはい、とこたえる。
 もうすぐ日付が変わるのに、どうして、わざわざ?
「忘れたいとか、意外に可愛いよな、先生は」
「勝手な憶測を、する、な!」
 噛みついたり、突き上げたり。
 前髪を掴んで体ごと揺さぶりながら突き上げれば、両肩を掴む手が爪を立ててくる。
 顔を近づけて唇を奪おうとすれば、牙を剥いて噛みついてくる。
 まるで野生の獣を相手にしているみたい。
 甘ったれな、野生の獣を相手にしているみたい。
 突き上げるのをやめれば、自ら腰を振ってくる。淫らで憐れな転天才の性器を、俺は親切にも握ってやった。

 シャワーを浴びて缶ビールを開ける。
 天才様は熟睡している。
 天才外科医の行動に、心当たりぐらいあるのは、長い付き合いの証拠か。
 勝手に奴のコートから、スマートフォンを抜き取る。
 案の定。画面に映し出された緑枠のメッセージ。

”今月は、いつ帰ってきても、平常運転だよ”

 なんて簡潔なメッセージ。
 岬の診療所で留守番している助手からの、だから帰ってきてほしいのに、それを告げない言葉。
 イベントを素直に楽しむことのできない天才外科医。
 過去を上書きされたくない。思い出が霞むのを恐れるあまり。
 それを面と向かって言う、勇気もない。
 だから。

「逃げ場所があるだけ、幸せだねえ、先生」

 だから、イベントが終わったら、帰りな。
 お前の家は、ちゃんとあるのだから。


 

-了-

2016.12.24 不良保育士コウ(7月の氷)