「あえ?」
夕食時。
味噌汁椀を運んできた少女が、疑問符を口にする。
食卓につき、携帯電話のディスプレイを眺めていた天才外科医は、視線をその声の主にうつした。
「どうした?」
「ちぇんちぇい、手、カサカサ?」
ジッと指先を見つめてくる少女の言葉に、そういえばと天才外科医は思い直す。
普段から清潔操作には当然気を配っていたが、このご時世、殊更気をつけなければならなかった。
少し気が緩んだ人間が増えてきたのか、商業施設の入り口にある消毒用のアルコールボトルも中身があやしいものも増えてきている。
だから、自分で携帯用のボトルを持参していた。
当然、アルコール濃度は高いものを使用しているため、肌には優しくない。
椀を置くと、少女は「ちょっとまってて」と言い残し、リビングへと消える
自分の指に触れながら、天才外科医はその乾いてかさついた感触に、何か記憶の破片がはらりとはがれる音を聞いた。
それは、医学的な知識や経験則ではなく、もっと琴線に触れる、奥底の幼い、思い出したくない類のものと同時期ぐらいの。
指がぱっくりと割れたら痛いのよ
クリーム塗っておこうね
耳の奥で聞こえたような、声。
青く平たい缶の蓋。開けると真っ白なクリームが、まるでクリスマスケーキのように詰まっていた。
これ、おいしいの?と尋ねれば、おいしくないよ、と答えてくれた。
「ちぇんちぇい、おまたちぇ」
記憶の声と言葉をかき消す幼い声が、天才外科医を現実に引き戻した。
声に視線を落とせば、丸いピンクのプラスチックケースを抱えた少女が「こえ、いいんらよ」と笑って蓋を開ける。中身は、透明なジェルだった。
「こえ、コエンザイムQ10と、ヒアルロン酸と、コラーゲンとプロポリスとカタツムリの分泌液が入ってて、とってもいいのよさ」
「なんでも入りすぎじゃないのか」
ゆっくりと口を開く。言葉が声となって響いたことに、安堵した。
現実にいる。大丈夫だ。そう、無意識下で自身に言い聞かせていることに、天才外科医は気づいていなかった。
「たくさん入ってゆのが、いいれすう」少女は笑った。「指がぱっくり割れしたら、痛いんやから」
記憶の言葉が少女の言葉と重なる。
だが、それに嫌悪はなかった。
記憶の言葉はゆっくりと消える。いや、沈んでゆく。
また元通り、記憶の奈落へと。
少女の小さな指がジェルを掬い、天才外科医の指先に乗せてゆっくりと塗りこんでゆく。
記憶の中のクリームと違い、滑らかに伸びるジェルはべたつかず、気持ちよく肌に浸透していくようだった。
優しく撫でる小さな指は心地い。それは、先ほどの記憶の欠片でついた小さな傷を、癒すよう。
「こえ、べとべとにならないのよさ。便利れしょ?」
ニコニコと。笑顔で説明する少女に、これは厳選されたジェルであるのだと、読み取れる。
天才外科医のことを考えて、膨大にあるハンドクリームの中から、天才外科医にあうものを探し出してくれたのだろう。
指先は潤い、しっとりと瑞々しさをとりもどす。
「悪くないな」
「れしょ?」
ドヤ顔の少女に、感謝を述べるべきか、天才外科医は笑いながら考える。
-完-
2022.1.2 掲載 不良保育士コウ
※潤いジェルは私の愛用品です(え)