電話のあった総合病院は、数年前に病院長および外科部長が変わったと聞いていたため、もう依頼など来ないと思っていた。
指定日に行ってみれば、確か、あの当時に頼りなさげだった男性医師が随分と精悍な顔つきになり、天才外科医を出迎えてくれた。
「お会いできる日を楽しみにしておりましたが、この形での再会は……残念です」
握手を求めながら、厳しい顔つきでのその言葉に、僅かながら天才外科医は感心する。
今回の難治性の皮膚潰瘍が、悪性由来であると診断がついたときに天才外科医が呼ばれた。
心がしっかりと育っていることを、頼もしく思う。
一刻を争う状況であるため、電子カルテの情報を耳で入れながら、手術室にて患部をみる。
意識は不明瞭であるため、手術をすぐに執り行うこともあり、麻酔医がすでに管理している状態だった。
胸部表面上に浸食した潰瘍からは、独特の匂いがたちのぼる。
「どうして、ここまで放置していたんだ」
状況に感想を口にする。ここに至るには、あえて放置しなければ、ここまでにはならない。それほど患部は広範囲だった。
「ちぇんちぇい、だめ」
傍らでペンライトを持って患部を照らす助手の少女が、静かに言った。「怖かったんらよね。大丈夫、もう大丈夫だから。きえいになゆから」
優しく話しかける、その少女の舌ったらずの声に、場が気づいたように、ハッとする。
聞こえていないと誰が決めた。もしかしたら、聞こえているのかも、と。
それは根拠がない話だ。だが。
「まだ終わらない。終わらせない。あなたの生きてきた、その長い長い歩みは、まだ止まらないから」
力強く、少女は告げる。誰も反論はしない。
そう、助けるために。この場にいるスタッフは、そのためにいるのだ。
すでに麻酔のかかる患者の表情が、僅かに緩んだように、感じる。
仕事を終え、総てを引き継いで病院の裏口から出たのは、すでにここを訪れて数週間がたっていた。
「ありがとうございます!」
感謝の言葉を込めての外科部長に、助手の少女は「また、いつれも、どうぞ」と笑う。
「ピノコ」
諫めるように少女の名前を呼び、それから天才外科医は口を開く。
「あとは、あなた方だけで大丈夫でしょう。それでは」
「ブラック・ジャック先生!」
踵を返す天才外科医に、部長が少し大きな声で言った。「いつか、一緒にお話をすることは可能でしょうか?」
「……都合がつけば」
「都合がつけば、らいじょうぶれーす!」
小さな呟きを、少女が代弁して答えた。
一礼をする外科部長を背に、二人は歩く。夜は随分と更けた頃だった。
空には、細い月といくつかの星が天を彩っている。
今日は車ではなく徒歩だった。
理由は、車検と言うごく一般的な理由であった。
「キリコの奴が、代車の手配を忘れるから、歩く羽目になるんだ」
ぶつぶつ言う天才外科医に、少女は
「れも、車検の手配ちてくれたの、ロクターだから、あまり文句ゆえないよのさ」
仕事にかかりっきりであった天才外科医のセダンの車検が迫っている事を、死神の化身が散々忠告していたのを無視していた結果が、車検切れ数日前であったのだ。しびれを切らしたドクターキリコがセダンを持っていったのが今日だ。
感謝するべき事であるのだが、それは癪であろう、天才外科医は無言を貫く。
代わりに少女がお礼を言ったのだ。
とりあえず、お嬢ちゃんに法廷点検の日程を今度教えるから
死神の化身が、少女のLINEにそんな文面を送信してきたのは、内緒だ。
30分ほど歩いた頃であろうか。
「ちぇんちぇい、ちゅかれたから、休憩しよ〜」
コンビニの前で、コンビニを指さしながら少女が提案する。
天才外科医は、少し考えてから「少しだけな」と振り返りながら答えた。
「わ〜い、アイス!」
笑顔で少女はコンビニの開いた自動ドアの中へ飛び込んだ。
「疲れたんじゃなかったのか」
呆れながら後に続く天才外科医の口元に、笑みが浮かんでいる事に、本人は気づいてはいない。
少女は「これこれ」と言いながら、青い袋に坊主頭のデフォルメされた少年の描かれたパッケージのアイスを引っ張り出す。
それは天才外科医も知る、ソーダ味のアイスであった。
「なつかしいな、まだあるのか、それ」
「定番のおいしさなのよさ!」
レジで購入すると、すたすたと少女はしっかりとした足取りで、道路を進む。
「どこ行くんだ」
「こっちに、確か、公園が……あった!」
コンビニの脇道を入り、しばらく歩いていくと、小さな児童公園があった。
「よく知っていたな」
「え?らって」少女は天才外科医の手を握って、笑った。「前、ここで、ちぇんちぇいといっちょにアイス食べたんらよ」
「そうだったか?」
握られた小さな手が、公園へと導いて行く。
そんなことがあったか、まったく思い出せないが、少女が言うのならきっとそうなのだろう。
ベンチに並んで座る。と。
少女がアイスの袋を開こうと両手で摘まんだ。
その時に、なんとなく思い出す。そうだ、あの時は上手に袋があけられなくて、キーキー言っていたな。と。
「あーおいちちょう」
少女は、すんなりと、アイスの袋を開けて、中身を取り出した。
二つある取っ手の棒を持つと、慎重にそれを二つに切り離す。
青いアイスが二本になった。
「はい、ちぇんちぇい、どうぞ」
一つを少女は差し出し来た。
受け取りながら、目の前の光景に重なるように、もう一つの記憶の光景が広がる。
あの時は、パピコだったと思う。上手に持って食べることが難しかったから。
でも、今は。
「ああ」
天才外科医は、それを受け取った。
それを見届けて、少女は小さな口で青いアイスを一口齧り取る。
しゃく。
「ん!おいしい!」
嬉しそうに感想を述べた。
あの時は、パピコからアイスを吸い出すのも、難しかったから、少しべそをかいていた。
しゃく。
天才外科医も、一口齧るとる。
ソーダ味の懐かしい甘さが口に広がる。
「あの時は、パピコだったのよさ」
食べながら、少女が笑いを含んだ声で言う。「あの時は、ちぇんちぇいがパピコを割ってくえたけど、上手に食べれなかったから、ちょっとくやちかったのよさ」
「覚えてたのか」
「もちろん!」
だから、と少女は続ける。「ここで、またちぇんちぇいとアイスを食べゆことがれきて、思い出の場所が、楽しい思い出も出来て、よかったのよのさ」
上書きじゃなくて。
最初は上手に食べることができなかったけど、2回目はおいしくいただきました。
そんな思い出が、この公園でできて、よかったのだ、と。
思い出が増えて、うれしいのだ、と。
「大げさだな」
「青春の1ページらの」
長い長い歩みと言った。
少女の歩みは。まだ始まって間もないけれど。
その歩みは、天才外科医と、共にあるのだ。
-完-
2021.7.10 不良保育士コウ
※マメな男ドクターキリコ