岬の診療所の日常風景


 




【おでかけ、してくれる?】


「私に話し掛けるなッ!!」
 どの医師からも見放された患者が縋る、最後の砦。
 天才外科医と呼ばれる彼は、誰よりも苦悩し、誰よりも苦しんでいることを、少女は知っている。
 だから、平気。
 煩悶する彼に怒鳴れても、酷薄にされようと。
 だから。
「ちぇんちぇい、おさんぽ、いこー!」
「……………ちょっとだけだぞ」
 だから、一つの依頼がおわった時、少女は天才外科医に外出を提案する。
 彼の気分が良ければ、応じてくれる。
 彼の気分が、まだ暗ければ、無視される。
 だから。
「おべんとーつくったのよさ!」
「昼飯は、それか?」
「ちょ!」
 少女は無邪気に、明るく笑ってみせる。
 天才外科医が、つられて、笑ってくれることを祈りながら。

 苦悩から少しでも離れて、世界を愉しむ事ができるように。



…………………………………………………



【さりげない、プレゼント!】


 冬将軍が寒波を連れて列島にやってきた日。
 雨雲とは違う、薄いねずみ色の雲から、とうとう、白い雪が舞い降り始めた。
 少女は、この気象現象が好きだった。
 なかなかお目にかかれないこれは、まるで美しく柔らかな真綿が天から千切り降りてくるようで。
「冷えるぞ」
 窓ガラスにおでこをくっつけながら、熱心に外を眺める少女に、天才外科医が声をかける。
「うん!」
 答えながらも、少女は窓から離れない。
 少女の住む場所は、滅多にそれが積もることがない。
たとえ積雪があっても、薄く地面を覆うだけ。
 ニュース番組で言っている、東北などの北国へ行って、自分の背丈よりも高い雪を、一度見てみたかった。
「買い物に、行くんじゃかなかったのか」
「うん!」
「…ピノコ」
「うん!」
「…車、出してやろうか」
「うん!………え?」少女は、初めて天才外科医の方へと振り返る。「ちぇんちぇい、買い物いっちょに行ってくえゆの?」
「依頼もないからな」
 少女の満面に、嬉しそうな笑顔が広がった。
「あいがと!ちぇんちぇい!」
「…ああ」
 彼が立ち上がったので、少女は慌てて自分の部屋へコートを取りに行く。
 気紛れな天才の気が変わってしまう前に、早くしなくては!
「おまたせ!ちぇんちぇい…」
 ピンクのコートを羽織って翔けて来た少女は、思わず立ち止まった。
 そして、驚いたような、信じられないものをみたような、そんな表情を浮かべている。
「行くぞ」
「ちぇんちぇい、そえ…」
「…寒いからな」
 車のキーを握る天才外科医は、何時もの黒いコートを羽織っている。
 だが
「ちぇんちぇい、着てくえたんだあ…!」
 コートの下の服装は、何時もの黒いスーツに、青い几帳面なリボンタイではなく。
 こげ茶に近い色合いのセーター。
「行くぞ」
「うん!」
 少女は、彼の横まで駆け寄ると、強引にその手を掴んだ。
 振り払うまでもなく、彼は握られた手のまま、玄関のドアを開ける。
 こげ茶色の、ありふれたセーター。
 それは、少女が見立てて買ってきた、セーター。
 それは、彼がプライベートである証拠。

 プライベートを少女と過ごしてくれる、証。


-完-

2018.2.25加筆  7月の氷(コウ)

旧サイトの1周年記念のフリー小説らしいです(覚えてない)