八重桜


 

 今年の桜は随分の早足に過ぎ去り、愛でる暇があまりなかったと思う。
「いじょーきしょーのせいなのよさー」
 窓から外を眺めながら、岬の診療所の留守を預かる少女は、ため息交じりに呟いた。
 毎年のお楽しみである桜のお花見。
 ソメイヨシノはクローンだから、一斉に咲くのだ、とか、それは自然の姿ではない、とか今年はそんなことがSNS上で騒がれていた。
 だからみんな一斉に咲くのか、と納得し、そして今年の満開は平日であった上に、満開になった週の土日は天候が嵐と呼ぶほどの荒れ模様であり、次の晴れの日にはすっかり花弁は散ってしまっていた。
 桜の下でお弁当を広げる暇がなかったのだ。
 天才外科医とお花見が出来ない年があっても、それは仕方がないのだが、今年は桜さえもゆっくりと観る事ができなかった。
 春の一大イベントを潰されて、少女はショックで落胆する……というのは支度のはないので、ひとまず、異常気象に八つ当たりすることにしたのであった。
 そんな時である。
 天才外科医からメールが来たのだ。
 彼の人は、現在、スウェーデンへ出張中である。
 仕事中、余程の事がない限り、あちらからメールを送ってくることも、LINEでコメントしてくることもほとんどない。
 珍しいを通り越して、不安になる。
 メールを開けば、日本航空のスウェーデン行きの飛行機チケット予約完了しましたの案内である。
 しかも。
「…出発が、羽田…12時半?…今日!?」
 現在時刻は、朝の8時半。
 ミュンヘンとフランクフルトの乗り継ぎチケットである。
「もー!ちぇんちぇい!なにがあったかぐらい、おちえてほしいのよさー!」
 文句を言いながら、少女は手早く支度をして家を飛び出す。
 果たして、間に合うであろうか。

 特に何もコメントがなかったので、恐らく無事であろうと思う。
 スウェーデンの情勢を検索しても、テロ等の情報もないので、恐らく。
 それでも、めったにない事態に、少女ににわかに不安が広がる。敬愛する天才外科医に会えるという事実に、嬉しさも混じる。
 脅威のスピードで羽田空港に到着し、無事にミュンヘン行きの飛行機に搭乗することが出来た。
 合間に、LINEで天才外科医に報告を入れる。
 既読になるところをみると、ちゃんと読んではいるようだ。
 そして、乗り継ぎ2回、合計18時間のフライトの末に、ストックホルムに着いたのは、23時半。
 入国してから、さてどうしようかと思えば、珍しくLINEにメッセージが入った。

 Arlanda Express ストックホルム中央駅

   つまり、来いということであろう。
「……スウェーデンって英語だったけ?」
 不安を覚えつつ、少女はひとまず電車に乗る。
 30分後に到着した駅で下車。さてどうしたものかと周りを見渡せば。
「ピノコ!」
 日本語で呼び止められた。顔をあげれば、2か月ぶりの。
「ちぇんちぇい!」
「ほら、こっちだ」
 足早に出口へと向かう天才外科医の後姿を、少女は必至で追いかける。
 随分ラフな格好だ。恐らく、仕事の途中だったのだろう。
 人ごみをかき分けるように追いかける。
 とりあえず、元気そうでよかった。
 安堵の感情で満たされてから、荷物ぐらいもってくれてもいいじゃないかーとか、ギリギリでチケットを送ってこなくてもーとか、ふつふつと不満も湧いてくるが、それはおいておくことにする。
 人ごみの中を歩き続けていると、ふと、天才外科医がこちらを向いて待っている。
「ちぇんちぇー!」
「ほら」
「え?」  天才外科医は天を仰いだ。
 つられて、少女も見上げる。と。
「うわあ!」
 歓声が毀れた。
 空を覆い尽くすように咲き誇るのは、満開の桜。
 美しい、八重桜であった。
 追いつくのに必死で、少女はどこを歩いているかわからなかったが、改めて周りをみれば、公園の中であった。
 ストックホルム王立公園。
 1998年に日本からスウェーデンへ送られた八重桜63本が植えられた、桜の名所である。
「もう、日本は葉桜らしいな」
「え、うん、ちょ。」
 天才外科医の言葉に、少女は驚く。
 もしかして、ピノコが花見が出来なかったから、わざわざ呼んでくれたのかちら?
「…明日、再手術する。だから、ついでだな」
 少女の心を読んだのか、天才外科医が口早に伝えてきた。
 だが、視線はあわせてこない。
「あらまんちゅー!」
 少女は、天才外科医の手をとりにっこりと笑いかける。「ちぇんちぇい、あいがとー!」
「だから。仕事で呼んだだけだ」
 手を握り返しながら、天才外科医は、答える。

 
 桜ばな いのち一ぱいに咲くからに 生命をかけて わが眺めたり  岡本かの子
 


-完-

2018.4.15  不良保育士コウ