薄桜の舞


 あ。
 それを垣間見た時に、思わず毀れた自身の声に驚き、それを誰にも知られたくなく、エドワード・ジョルジュは足早にその場を去った。
 日本人医師である、本間丈太郎先生の研究室を訪れた時であった。
 数インチ開いた引き戸をノックしようとして、室内が見えたのは不可抗力だ。
 その隙間から聞こえてきた、音。

「Dewaitadakimasu」

 聞いたことのない単語。だが、その単語を発した男の声は、よく知った人物であった。
 間 影三。本間と同じく日本人の医工学博士。
 彼は本間の真向かいに座り、陶器のボウルに顔を突っ込むように、ガツガツと何かを平らげているようであった。

「Hazama-kun madatakusanarukara otithuitetabetamae」

 本間の単語も聞き慣れた英文ではなかった。
 それは恐らく、二人の共通言語である日本語であるのだ、と理解した時に、ジョルジュの胃がシクと微かに痛んだ。
 
「okawari,itadakemasuka!?」

 間が顔をボウルから離し、手にしたボウルを本間に差し出しながら、叫んだ。
 あ。
 それを垣間見た時に、思わず毀れた自身の声に驚き、それを誰にも知られたくなく、エドワード・ジョルジュは足早にその場を去った。
 まるで子どものような、笑顔であった。
 いつもは無表情のような、周囲を威嚇するような、儀礼的なはにかむような。
 間はそんな表情をしていた。
だがそれは、自衛だ。
彼は日本人であり、若い。まるで学生のような風貌に皮肉交じりの差別用語で陰口を叩かれている。
 陰口は、彼を真正面から太刀打ちできない連中の遠吠えであったが、それでも、彼は常に警戒するような表情でいた。
 例えていうなれば、手負いの獣のように。
 それが。
 まるで子どものような笑顔であった。子どもの様に、叫んでいた。

「なんだ。本間先生の前だと、そんな顔も出来るんじゃないか」

 吐き出すように、ジョルジュは呟く。
 またシクと胃が痛んだ。



 ノワール・プロジェクト。
 国家機密に属するそれに参加する中で、間は無名であった。
 だがそれは表面上の世界の話であり、一流、権威と呼ばれる人間の中で、彼の名前と論文は、脅威とも未曽有の天才とも秘密裏に呼ばれ続けていた。
 薬理の神と呼ばれる老博士の後継者と呼ばれたエドワード・ジョルジュもその1人であり、間の論文を秘密裏に手にした時、驚愕と共に人種差別の壁を痛い程感じたのであった。
 彼が無名である理由。
それは先の大戦で敗戦国となった極東の島国出身であり、その島国が今は戦後復興を遂げ高度な経済成長を続けている。その成長ぶりを快く思わない人間、または恐怖する人間たちが、彼の才能を握りつぶそうと働いたのだ。
 だが、握り潰し、抹殺するには、彼の論文はあまりに高度過ぎたのだ。
 彼がいなければ、医工学という分野は数十年は遅れていただろう。
 その事を知らない平凡な秀才は彼を黄色いサルと呼び、この程度の教養はあるのかと馬鹿にしていたが、彼の論破に連中は数日で閉口した。
 可愛げのない。愛想がない。
 無表情であり口数の少ない彼の印象が、それだ。
 だが、この合衆国で受けてきたと思われる彼の仕打ちを思えば、隙を見せることなく、常に臨戦態勢であるのは仕方のないことであろう。
 色のついた肌は、暴力の餌食であった。警察ですら偏見をもっているなか、彼らの死体が転がっても誰も見向きもしない。
 凄惨な人種差別を受けた来たのだろうと想像するのは、難くなかった。
 だが。
 心無い馬鹿げた論争は一蹴してみせる彼だが、正当な討論では本領を発揮してみせる。
 ジョルジュは少なくとも彼のその”高度過ぎる””複雑怪奇”で”飛躍しすぎる”理論を何時間でも話すのが楽しかった。
 最初は警戒心丸出しで、ボソボソと反論を述べる彼が、何度も討論を重ねるうちに声を大きく主張したり、ジョルジュの仮設の欠点を指摘したり、またはジョルジュが彼の根柢の矛盾を論破したり、そうこうするうちに、他の人間よりは彼と親しくなれたと思っていた。
 事実、彼に外食や散歩の誘いをすれば、ジョルジュは断られることがなくなった。
 だから、なのに。
「私の前では、そんな笑顔は見せてくれないんだ。ずるいじゃないか」
 料理上手なジョルジュの手料理を食べに来たクロイツェル博士は、今日はタイミングが悪かったと後悔していた。
 クロイツェルとジョルジュは、留学生時代からの馴染みの仲であるため、プライベートでは遠慮がない。
 先ほどからテーブルに料理を並べるたびに繰り返される、今日の間 影三の話に、クロイツェルはパイシチューのパイ部分をフォークでつつく。
「聞いているのか、クロイ」
「聞いているよ、エディ」
 つぷ。とフォークでパイを破りシチューの中に落としながら、クロイツェルは「日本は単一民族で成り立つ島国国家だというだろう。この中で日本人は本間先生と間クンだけなんだから、二人が日本語を話して、寛いでいた、というだけのことじゃないのか」
「日本語を覚えろってことか」
「そんな事、一言も言っていないぞ」
 噛みつくように反論するジョルジュの言葉に、クロイツェルはため息を吐く。
「私から見れば、ジョルジュの努力の甲斐はあると思うが、な。間クンはジョルジュといる時は表情が柔らかだ」
「でも、あんな風に笑ったりはしない」
 拗ねたように、ジョルジュは言う。
「諦めろ。同郷という絆には勝てないさ」
「何故!?私は、間クンにもう少しリラックスした状態で、いてほしいと思うだけなんだ。常に緊張をしていたら、疲れてしまうだろう」
「だから、それが余計なお世話なんじゃないか」
「余計じゃない!!」
 ばん!テーブルを叩きながら、ジョルジュはクロイツェルを睨み付ける。
「緊張を強いてたら、見えるものもみなくなり、彼の本領だって発揮出来ない!」
「だから、本間先生といれば、リラックス出来るんじゃないか」
「本間先生はチームが違うだろう」
 噛みつく反論に、クロイツェルは段々とイライラがつのってくる。
 主観的過ぎて、理性も何もあったものじゃない。
「ジョルジュ」
 フォークを、かた、と置き、クロイツェルはジョルジュを諌めるように呼んだ。
「それらしい建前はやめたまえ。君は本間先生に嫉妬している。何故なら、君は間クンに恋をしているからだ」
「は?」
 唐突に告げられた結論に、ジョルジュの脳内は空白になった。
 空白になり、クロイツェルの言葉が脳内に入り込み、薬理の神博士に鬼才と称された頭脳で理解するにつれて、ジョルジュは「ああ」と声を挙げた。
「そうか。そうだな」ジョルジュは頷きながら言う。「なるほど。やはり客観的な視点は大事だな」
「間クンはゲイじゃないぞ」
「知ってるさ」
 清々しい笑顔でジョルジュは答える。
 まるで長年悩み続けてきた難問が解けたかのような笑顔である。
 やはり主観だ。クロイツェルは頭を抱えたくなった。
 事実を認識してほしいが故の指摘なのだが、何故、この男は間の事となると主観的になってしまうのか。
 つまるところ、恋の病という事なのか。
「…どうする気なんだ」
 諦め半分に、クロイツェルはたずねてきる。
「どうもしないさ」
 クロイツェルの問いに、ジョルジュはやはり笑顔で答えた。「間クンは、思い続けている女の子がいるからな。まあ、惚れた者の特権として、彼を守る騎士にでもなろう」
「間クンが嫌がらないか」
「嫌がらないように、努力するよ」
 能天気な回答だとクロイツェルは思うが、恋する男に何を言っても無駄だという先人の言葉に習い、敢えて言う事を止めた。

 だが、その能天気な回答は数日の後に、急展開をみせる。

 コロンビア大学に行くついでに、桜を見て行こうとなったのだ。
 ジョルジュの用事であったが、一緒に来てくれないか、と間を連れ出した帰り。
 大学の北側にあるハドソン川沿いの”SakuraPark”という小さな公園の桜が満開なのだという。
 あまり外出を好まない間をジョルジュが強引に連れ出した形であったが、コロンビア大学での研究である核磁気共鳴による体内部の映像診断技術を見る事が出来た事に、大いに満足していたようだ。
「ドクター・ジョルジュのお蔭ですね。誘ってくださってありがとうございます」
 いつもの無表情よりは、いくらか和らいだ表情で彼はお礼を言ってくる。
「いや。私も興味があったからね。これから、ああいった診断方法が導入されることで、内部の状況がよりわかるようになるのだろうな」
「腫瘍の位置や、良性と悪性の診断がつけば治療法の幅が広がりますからね」
 力強く言いながら、彼は公園内の桜に近づき、大木を見上げた。
 淡いピンクに色づいた小さな花弁をたくさんつけたそれは、見事な満開であった。
「満開ですね、桜」彼は見上げたまま呟いた。「…懐かしいな…日本人は、桜を見ながら宴会をするんですよ」
「へえ?桜は日本人のスピリッツだと聞くけど、パーティーまでするのか」
「ええ。立食ではなくて、地面に敷物を敷いて弁当を食べるんですけど」
「ピクニックみたいなものか。それじゃあ、今度”onigiri”でも持って来ようか」
「あ、いいですね!」
 楽しそうに、彼は振り向いた。
 彼が笑ったのだ。それは、ジョルジュが見たくてたまらなかった、あの時のような笑顔であったから。
 屈託のない、無邪気なその笑顔。
 その時、ざっと風に枝が揺れ、小さな花弁が彼を覆い隠そうとするかのように、舞い落ちる。
 淡い桜色の花吹雪。ジョルジュは思わず彼へと手を伸ばしていた。
 淡い桜吹雪が彼を覆ってしまった。
「間クン」
 腕を掴む。その物理的な感触に安堵した。大丈夫、彼はこの現実にいる。
「見事な桜吹雪でしたね」
 空を仰ぎ見て、それから、彼はジョルジュをみる。
 それは、心からの楽しさを感じている、それは、とても優しい微笑みであった。
 淡く、この桜の花びらに溶けて消え入りそうな、まるで夢のような、優しい笑み。
「…間クン…」言葉が、思わず零れ落ちる。「…愛してる……」
「…………は?」
 微笑みが消え、あとは驚きに満ちた顔。
 ジョルジュは慌てて「いや、その」と言葉を濁したあとに「とりあえず、帰ろう」とだけ告げる。
「はい」
 それからの間の表情は、いつも通りの無表情であった。





「…馬鹿か君は」
 クロイツェルの言葉にジョルジュは恨めしそうに視線を投げたが、そのままソファーに俯せたまま。
「何が”嫌がらないように努力する”だ。呆れた無節操な男だな」
 容赦のない言葉に反論する気力も萎えたのか、ジョルジュはぴくりとも動かない。
 傷心であるということなのか。クロイツェルは、心理学の知識を脳内から引き出して結論付ける。
 そもそも、ジョルジュは無節操な男ではない。むしろ、自己抑制の高い、装う事に長けた男であるのだ。
 ジョルジュもまた、学生の時分から薬理の神教授に見出され、早いうちからその鬼才の頭角をあらわしてきていたのだから、周囲の羨望と嫉妬は相当なものであったのだろう。
 当時、留学生にして”優秀な学生”程度の認識で存在していたクロイツェルは、その鬼才の学生の威嚇に当初は大袈裟であるなとさえ、思っていた。
 つまり、似ているのだ。ジョルジュと間は。
 だからこそと、思うのだが。
「弟の様に愛している。と、家族愛にでも切り替えればよかったのに」
「……私は映画俳優じゃない……」
 俯せたままのくぐもった声。「……天に還ってしまうのかと…」
「え?」
「…神が、天に、彼を連れて行こうと…」ジョルジュは言った。「……まるで、天使の様に、優しい微笑みだった…まるで最期であるかのような……あの花弁の霧に紛れ、大天使が彼を連れに来たのかと……あのまま、あの美しい笑顔を私に残し…消えてしまうのではないか…と」
 淡い桜色の花吹雪。
「つなぎとめたくて…言葉が…毀れたんだ…」
「そうか」
 ばっさりと、クロイツェルは答える。「じゃあ、正直にそういえばいい。行くぞ」
「どこに」
「決まっているだろう」
 ジョルジュの腕を掴み、無理やり体を起こす。
 憔悴しきったジョルジュを見て、クロイツェルは大きなため息を落とした。
 恋は盲目だとは、よく言った。クロイツェルのため息にはその言葉が含まれている。
 間はギリシャ神話に出て来るような美青年といった風貌はしていない。
 アジア人特有の幼い顔立ちにはみえるが、どちらかと言えば、鋭利な印象をもつ青年だ。
 現実主義なジョルジュの口から、まるでシェークスピアのような台詞が出てきたことにも驚きだが、その形容が間に対するものである事に、クロイツェルですらどう返せばいいのかわからない。
 つまり、ジョルジュにとって間は、神聖なる愛の相手であるのだろう。
 ジョルジュの名前が「エドワード(富と幸福の守護者)」であるからして、その名の通り、間を守護すればよいのではないか。
 そうでもして決着をつけないことには、研究が遅れてしまうと、クロイツェルは再びため息を落とす。
  





「どういう意味なんですか、俺、からかわれているんですかね」
 間の問いに、本間は腕組みをしながら推敲する。
 暗い顔をした間が本間の部屋を訪ねてきたのが1時間ほど前。何があったのかと言えば、先ほどのコロンビア大学での一件を話したのだ。
 間の話を聞き、そうか、ドクタージョルジュが間クンに執心であるのは、恋心も含まれていたのかと、本間は心の中で納得する。
「まあ、ドクタージョルジュの事は置いておこう」
 本間は自身で淹れた日本茶を啜りながら「間クンはどうなんだ。気色悪いから、彼とは縁を切るかね?」
「いや、ドクタージョルジュは素晴らしい方ですから、こんな事で研究が滞ってしまうのは、嫌です」
「まあ、仕事とプライベートを混同する男ではあるまい」本間は少し笑って「プライベートでの縁は、不必要かね」
 休日の時に、二人がよく外出する姿を、本間は見ていた。
 羨望と嫉妬が渦巻いていると言って、決して過言ではないこのプロジェクトにおいて、ジョルジュの働きかけは、若い間には良い影響を与えているのだと、本間も安心していたのだ。
 「そりゃあ…俺はゲイではないので……」
 言葉を口の中で咀嚼するように、間はモゴモゴと言ってから「でも、俺もショックなんです…ドクタージョルジュは……その、兄のようだと…」
「その認識でいいんじゃないかね」
「いやでも、俺がその認識でも…ドクタージョルジュの方が……」
 言葉を切り、間は俯く。
「影三?」
 立ち上がり、本間は間の側に来た。俯く彼の頭が小刻みに揺れ、顔色も真っ青であった。
「…俺は、ゲイは…キライだ…」
 途切れ途切れに吐き出す言葉に、本間は「そうか」と答え、その青年の頭をゆっくりと撫でる。
 まるで幼子にするように、優しく撫でると、間は「…俺は…」と絞り出すように、言葉を吐く。「…もう…二度と……」
「大丈夫だ」
 頭を撫でながら、本間は力強く言った。「不本意な事は、この私がさせないよ。影三。安心しなさい」
 少ない言葉の中に含まれる真実を、本間は正確に読み取っている。
 本間も人種差別を少なからず経験している。だが、いまはある程度の地位のお蔭で、それほど陰惨ではない。
 幼い頃からこの国で暮らす間には、口に出すことすら出来ないほどの深い傷があるのだと、それを思い、本間はよりいっそう優しい手つきで頭を撫でる。
 安心するがいい。そう語るように。
 頷こうとしたのと同じタイミングで、ドアをノックされる。
 本間はやれやれと、そのドアを開けた。

 訪ねてきたのは、本間の予想通りの人物であった。
「間クンがここにいると思うのですが」
 クロイツェルの言葉に、本間は二人を室内に促した。
 クロイツェルの後から入ってきたジョルジュは、ソファーに座る間の姿を見つけた途端、その足元に土下座してみせたのだ。
「すまない!間クン!」頭を床にこすりつけたまま、ジョルジュは叫ぶ。「その…私は、なんと言うか、思わず!…いや、下心があったわけじゃないというか、その…兄の!そう、兄のような気持ちで、間クンが結婚する暁には…あかつきには…私は、ちゃんと見送る覚悟で愛するという…そういう、彼の側でそうしていきたいと…」
「あの、やめてください。土下座なんて」
 間が慌ててソファーからおりて、膝をついた。
 ジョルジュは顔をあげて、間を見る。「でも、愛しているのは、本当なんだ。でも、間クン私は…君が想う女性と結婚する時は、ちゃんと祝福もするよ!…だから、その、だから付き合いたい!いや、付き合いを続けてほしい!」
「いや、俺はゲイじゃ…」
「絶ッ対に手は出さないッ!」
 しーん。ジョルジュの叫びに、室内が静まり返る。
「…くく…」 その静寂を破ったのは、間の笑い声であった。「はは…何ですかそれ…!…話しが支離滅裂じゃないですか…!」
 破願する、まるで子供のような笑いに、誰もが安堵した。
 その中でも一番ホッとしたのは、ジョルジュであろう。
「それじゃあ、間クン…!」
「いや、俺、ゲイじゃないんで」
 きっぱり。竹を鉈で割ったように、さっくりと間は断りを入れる。「友人としての付き合いでしたら、歓迎しますが」
「それ、でいい、それでいいよ」
「じゃあ、私と本間先生が証人だ」
 クロイツェルの言葉に、またも間は盛大に吹き出した。腹を抱えて笑う彼をみて、ジョルジュの肩から力が抜ける。
 どうやら、最大の危機は脱したらしい。
「では、ドクタージョルジュ」
 不意に硬い本間の声に、ジョルジュは慌てて振り向いた。
 手には、万年筆と上質紙。
「間クンに如何わしいことをしない。強要しない。その旨を一筆書いて戴こうか」
 有無を言わさぬこの威圧感に、ジョルジュは「はい」と答えて、万年筆と上質紙を受け取った。 



 そんなわけで、本間丈太郎のカルテ庫の隅には、ドクタージョルジュの一筆が今でも保管されている。

-了-

2016.5.24 7月の氷