ぼたんをつける

「ワトソン君。袖口のボタンが取れそうだから、つけてくれないか」
「…………………また?…」
 書き物をしている医師の背中へ探偵は話しかける。
 その話の内容(というか、ほぼ命令)を聞き、医師は大層、不服そうな表情で振り返る。
「…僕、明日が締め切りなんだけど」
「知っている」探偵は答えた。「僕も、明日は捜査の続きなんだ。今日中に頼むよ」
「僕はハウスメイドじゃないんだぞ!」
「そうだな、君は外科医だ。縫物の専門家じゃないか」
 シレッと言い放つ探偵の言葉に、医師はがたんと椅子を鳴らして立ち上がる。

  


「ホームズさん、ボタンが取れかかってますわ」
 甘ったるい声で、その中流階級の女主人が探偵の腕に触れてきた。
 豊満な自慢な胸を腕に押し当てるのは、自慢であろうが、その下品な仕草は如何なものか。
「ウチのメイドに、つけさせますわ、ホームズさん」
 上目遣いで告げる言葉。
 その仕草がいかがわしいと同時に、妨害を含んでいるのだということは推理するまでもないのだが、それにしてもあまりの品の無さに、探偵は「結構です」と、抑揚のない声で答える。「私は、身の回りの事は、なんであれ、信用のおける人間でしかさせないのですよ」
「わたくしは信用がない、と!?」
 みるみる吊り上がる目つきに比例して、頬も紅潮する女主人は、探偵を突き飛ばすように離すと、少し離れた場所にいた警視庁の警部の方へと歩み寄り、自分がどれほどの屈辱を味あわせられたか、探偵がいかに無礼であるかを、金切り声でまくし立てている。困り果てたレストレード警部を他所に、年若いホプキンズ警部が探偵の傍へと来た。
「凄い交わし方ですね、ホームズさん」
 笑いを堪えながら、ホプキンズ警部は「それに、”信用”という言葉にあそこまで神経質であることは、誰が犯人であるか自分で言っているようなものじゃないですか。見事な誘導ですね!」
「結果としてはだが、本当のことでもあるがね」
「信用のおけるハドスン夫人だけなんですか?ホームズさんのボタンを付ける事の出来る、名誉ある人物は」
 警部の言葉に、探偵はただ静かに笑いで返す。





「こんなの、ハドスン夫人にでも頼めばいいだろッ!」
 文句を言いながらボタンをつける医師に、紅茶を優雅に飲みながら探偵は「外科結びよりは簡単だろう?」
「嫌味かそれは」
 外科医である医師は、器用に縫合…もとい、ボタンを縫い付けている。
 原稿を書くときは、ノロノロと遅々として進まない筆であるのに、糸と針を持った彼の指先は同じものとは思えぬほど、器用に動くのだ。
 それを見る。そして、彼は医師であるのだと、探偵は思う。
 拳銃も操るその手は器用であり、不器用だ。
 それらを知るのは、恐らく、この世で同居人たる探偵しかいない。
 そして、何より。
「ほら、出来た」
「有難う、ワトスン君」
「今度はハドスンさんにでも頼んでくれ!」
「いやいや、これは君の仕事であるよ、ワトスン君」
「なんでだよッ!!」
 怒り心頭である同居人を眺めながら、探偵はティーカップを置いて、パイプを咥える。

 何故なら、身の回りの事は、なんであれ、信用のおける人間でしかさせないのだから。

  
2015.9.28