矜持

 その事件は”医者殺し”と呼ばれた。

 そう呼ばれてはいるが、実際に命を落とした医者はいない。
 だが、被害者となった医者は、一応に多くを語らず、医者という職業を廃してしまうのだ。
 それが、医者殺しと呼ばれる所以である。

 囮捜査を持ちかけたのは、ワトスン自身であり、それを止めたのが探偵であった。
 なにも、本物の医者である君が出ていく必要はない。
 僕の変装術は君よりも本物の医者になりうる、と言い、大層、本物の医者であるワトスンのプライドを損ねてしまった。
 だが、そこまでして止める理由は、囮捜査という冒険を他の人間に譲る気はない、それがたとえ親友でも、という探偵の好奇心であるからと万人は考えるであろうが、実際の本音は違う所にあるのは、誰にも気づかれてはいない。

 困るのだ。ワトスンに医者という職業を廃してしまうほどの、ダメージを与えてしまうわけにはいかないのだ。

 結果としては、探偵の変装術は見破られ、あやうく命の危機に晒されたが、ワトスンと警視庁の警部たちの尽力で、医者殺しの事件は幕を閉じる事となる。
 警視庁に連れて行かれる哀れな犯人は、医者だった。
 母親と恋人。その二人を助けられなかった医者だった。
 医術を持つ人間が、大切な者を助けられない苦しみは、筆舌に尽し難い。

「さあ、どちらをとるのだ?母と恋人!どちらかの命しか選ぶ事が出来ないとしたら!」
「そんな無意味な質問に答える義務はない

 探偵は冷たく言い放つのは、やはり医者ではないからだ。
 どちらかを選ぶ、そんな事に正解などない。
 だが、医者であれば?
 それを尽す立場である医者であれば、それは避けては通れない。
 答える義務などない、正解などない質問であるが、その選択を突き付けられた医者が、自身の職業倫理の崩壊を招いたのだ。
 誠実な医者であるほど。優しい医者であればあるほど。

「愚問だな」
静かに答えたのは、ワトスン医師であった。「私だったら、両方を助ける」
「馬鹿か?どちらかしか選べないんだ!」
「ふざけるなッ!!」
 鋭い医師の一喝はその場にいた人間を竦みあがらせた。
 それは、命の重みと脆さを肌で知る、医師の言葉。
「考えるべきは、どちらか一方を選ぶ事じゃない!いかにすれば、両方の命を助けられるかだ!」
 その場が、水を打ったように静寂となる。
 ただ、犯人だけが。
 医師の言葉に犯人は膝を折る。
「ああ、ドクター…僕は…」
 医者殺し。そう呼ばれた男は、医師を見上げ、縋る様に尋ねた。「僕が……間違っていたのか?…母か恋人を選択した…この僕が…!」
「そうだ」
 医師は答えた。「君は間違えたのだ。だから、君は償わなければならない。命の限り、君は二人が生きる筈であった時間を、生きなければならないよ」
「…ドクター…」
 彼は警部に連れて行かれる。だが、それは、小馬鹿にした表情ではない。
 贖罪の心をもって、前を見据える青年の姿だ。

 どれだけ、変装術が巧みでも、医師には敵わない。
 そして、探偵は親友を見くびっていたのだと、思う。
 親友の壮絶な体験を、思う。
 彼は、戦場を知る、命の選別を嫌というほど経験してきた、医者なのだ。
 その壮絶な経験を探偵は想像するしかない。
 だが。
「さすが、説教がうまいな」
 探偵の言葉に、医師は「年寄りの様に言うなよ」
 憮然とするそれは、いつものワトスンだ。



2019.9.2


※ほどよく話を見失いました
  
2020.3.20 加筆