大切な日

 
旅行というには近場であり、馬車で駆けつけるには少し時間のかかる場所だった。
慣れない土地の土を這いつくばって観察したり、他人の家のめんどりの数を数えたり、学校の二階の教室の机の位置を書き写したりするのは、依頼者である女性の名誉ある矜持を守るためであった。
土地の警察の嘲笑と店主をはじめとする商店街の従業員の罵声を浴びながらも、探偵とそのボズウェルは、とうとう数年前の失踪事件の真相にたどり着いた。
それは、とても巧妙に隠された、賄賂を巡る不幸な事故だったのだ。
女性の父親の名誉は回復し、警察は苦虫を噛みしめたような表情で、裕福な商人を事情聴取のために連れ去った。
あとは、商店街の従業員と女性による感謝のパーティーであったが、真実を言い当てた主役たる探偵は、余計な事は結構と言い、早々に汽車でベーカー街に戻ると言うのだ。
少しぐらいはいいではないか、というボズウェルを引き摺って。

夜行列車の個室で揺られながら、ボズウェルは、女性の姉の作る自慢のキドニーパイだけでも食べてみたかったと小声で漏らす。
華美を好まず、女性を遠ざけておきたい探偵には、あのパーティーは苦手な類にはいるだろう。
「そんなにパーティーに出たかったのかね」
向かい側に座る探偵が口を開いた。
「ホームズ、起きていたのかい」
眠っていたとばかり思っていた探偵の言葉に、ボズウェルは驚きの声を出した。
探偵はゆっくりと眼を開くと、フン、と鼻を鳴らし
「君という人は、大事な日を他人とのパーティーで終わらせるだけでもよかったと言うのかね」
「どう言う意味だ?」
意味がわからない、という風にボズウェルは答えると、探偵は立ち上がり、食堂へ行こうと促す。
夕食は先ほど食べたばかりだが、どういうことかわからず、ボズウェルは探偵の後ろをついて行った。

食堂車につくと、探偵は寝過ごすといけないからと言い、二つのグラスに水を注いでもらい一つをボズウェルへ持たせる。
時刻はすでに0時をまわっていた。
探偵は手に持つグラスを、静かにボズウェルのグラスに近づけた。
きん。
静かな音がグラスから響く。
「誕生日おめでとう、ワトスンくん」
「え?」
 探偵の晴れやかな笑顔と言葉に、ボズウェルはぽかんと探偵を見つめ、そしてグラスとグラスを合わせた意味をようやく悟ったのだ。
「そうか、今日は8月か」
「そうだよ。君はなんて忘れっぽいのだね」
 グラスの水を飲む探偵に、ボズウェルは「ありがとう」と答えた。「そうだね、今日は君と一緒にゆっくりと過ごさねばね」

他人とではなく、親友の君と、共に。


2020.8.8



  
2018.5.23