子どもの病室の整理と、後片付けをしていた時だった。
ベッドのマットレスの下に挟まっていた、手帳。
赤い表紙のそれは、見たことがないものだった。
何気なく、その手帳を開く。
捲くっても、捲くっても、白紙が続く。
そして、そのページに行き着いた。
子どもの字だった。
それは、見知らぬ医師の名前と、電話番号。
とても丁寧に、それは書かれていた。
 不思議に思い、ナースステーションの看護師に、その医師の名を尋ねてみた。
看護師も、知らない、と答えた。
ただ、
小児整形のドクターなら、知っているかも、と教えてくれた。
子どもが成人してから、小児整形の医師とはご無沙汰だった。
どうしよう、と悩んだが、外来を尋ねることにした。
とても丁寧に書かれた、医師の名。
これが誰なのか、それがとても気になった。
 外来受付に顔を出すと、顔なじみの女性が、すぐに医師を呼んでくれた。
「お久しぶりです。…この度は…」
小児整形の医師は、丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれた。
私も短く挨拶を返し、子どもの手帳を見せた。
それが、隠すようにしてあったことも告げる。
医師は、その手帳を見て、息を呑んだ。
「辰巳先生、ご存知なんですね」
静かに尋ねる。医師は、ゆっくりと頷き、そして
「お母さん、これを隠していたということは、タカちゃんは、お母さんにそれを知られたくなかった、ということですよ」
「それでも」私は言った。「私は、あの子の事を、知っておきたいんです、先生!」
 医師の表情は硬かった。
 得体の知れない、最悪の事態が近づいてきているような感覚。
 最悪の事態?
 そんなもの、あの子が死んだという事実以上のものがあるわけがない。
 私は必死で訴えた。
形振り構わず、声も荒げて、その名前を、医師の名を、聞きだそうと、必死で。
 医師は折れた。
 まるで、死刑宣告のような、固い表情で。
「その医師は…安楽死を請け負う医師の名です…」
「アンラクシ…?」
アンラクシ
安楽死
--------------!
何か、とてつもなく大きな鈍器で殴られたかのような、衝撃。
心臓を鷲づかみにされ、その動きを無理矢理止められそうな。
目に見えない荒縄で、咽喉を締め上げられたかのような。
足の下の地面が、地獄へ向かって崩壊したかのような。
 震える手で、いつの間にか医師の腕を掴んでいた。
「あの子は…」震える、声。「…私たちは…間違っていた…のですか…」
「違います」
遠くで、医師の声が聞こえたような気がする。「治療継続はタカちゃんも同意した。
それは彼の意思です。彼は尽きるまで生き抜く道を、自分で選んだんですよ」
「…あのこは…もっと安らかに死にたかったんですね…」
苦しまず、安らかに、苦痛も無く、眠るように。
「…私が生きてと言ったから…だから…あの子は…!」
優しい子だった。だから、私が死なないでと言ったから。
でも、本当は、本当は、本当は…!
「辛かったでしょう、あの子は…私たちのせいで…あの子は…!」

 外来受付前で、母親の慟哭が響き渡った。
 それを黙って辰巳は受け止める。
 残酷とも言える、事実を抱えて。


『アンラクシ』