ある夜の選択肢
2010.5.29
最早、忘れてしまったが、確か小雨の降る寒い夜だったような気がする。 死神の化身は、珍しく自宅のソファーの上にいた。 すでに闇に包まれた室内に、一人。 明かりをつける気にもならず、ただ静かに、スピリタスの瓶を煽る。 瓶から直接流し込まれるアルコールは、ただの液体でしかなく、思考を鈍らせることも無い。 味はただ、紅い、紅い、鉄臭のみが。 不意に、玄関の呼び鈴が鳴る。 一瞬、かの天才外科医かと思い腰をあげたが、考えてみれば、あの男が呼び鈴を鳴らすわけが無い。 だが、立ち上がってしまったついでだ、と、死神は、酷く緩慢な動作で、ドアを開けに行く。 外にいたのは、いやに背の低い、蟹のような髪型の男。 「こんばんは、ドクターキリコ」 男は忙しない所作で、丸い頭を下げた。「私は、横倍病院の可児博士と言います。…ドクターに依頼したい患者がいまして…」 「…私は、患者本人からしか、依頼は受けない」 抑揚も無く告げると、死神はドアを閉めにかかる。 慌てたのは、可児博士と名乗った男だった。 「あ、あの!私は患者の代理でして!その、話を聞いていただきたい!」 「本人からなら、聞こう」 「そ、それは…できません…!患者は…その、とても高貴な身分でして…!」 唸るように告げる言葉は、死神の興味をひくことはなかった。 だが、次に述べられた言葉と、投げつけるように差し出されたレントゲン写真、それらが、死神の動作を止める。 「畸形嚢腫?」 「はい」 男は汗をふきつつ、この不気味な死神が自分の話に興味を持ったことに、僅かに安堵していたようだ。 「信じ難いことですが、この畸形嚢腫には意思があるようで……摘出しようとしても、それを阻止するのです……」 「生きていたいんだろうよ」 そんなわけが、ないだろうが。 だが男は真剣な表情で「それだと、患者の生命維持が困難でして」と答える。「とにかく…ドクターに、この畸形嚢腫を殺していただきたいのです」 「腫瘍殺し…ね」ククッと、低く死神は声を漏らす。「面白い話だが…俺の専門は安楽死でね…その腫瘍は生きたいって願っているのなら、俺の専門外だな」 「し、かし!それだと、患者の生命が!」 「ブラック・ジャックは?」 死神の言葉に、男は顔を顰めて死神を睨みつけた。 「…あの、モグリの無免許医ですか?…そんな男に依頼するのは…」 「ここに来た人間が、面白いことを気にするんだな」 ニヤリと死神は笑った。 それはまるで、地獄から這い出てきた人間のような、皮肉を張り付かせた、微笑。 「あ、あたってみます…」 男は、やはり忙しなく頭を下げると、あたふたと出て行った。 あの時の畸形嚢腫がどうなったかなど、死神は知らなかった。 だが。 「ロクター、バレンタインのぎりちょこらよー!」 「…わざわざ”義理”をつけることはないんじゃない?お嬢ちゃん」 可愛いらしいリボンをつけた小さな箱を受け取りながら、死神は笑う。 少女は「らって」と声を潜めて「ちゃんとそう言わないと、ちぇんちぇいが…」 「そっか」 二人で小さく笑うと、かの天才外科医が憮然とした表情であらわれた。 「……二人で、何をしている」 「「別に」」 あの時の畸形嚢腫がどうなったかなど、死神は知らなかった。 だが、死神があの時に依頼を受けなかったのは、ただ単に、気分の問題だった。 あの日。 死神の化身は、ある母親の依頼で、子ども殺しをしていた。