目が覚めた.
見慣れない天井に、一瞬ここがどこだかわからなくなる。
耳を澄ますと、すぐ傍から聞こえてくる、規則正しい寝息。
顔だけをそちらに向ける.
そこにある寝顔に、ああ、と納得した.
ここは彼の自室だった.
部屋は、まだ薄暗く、仄かに青みががかっている。
微かに聞こえる小鳥のさえずり.
もうすぐ夜明けが近い。
彼を起こさないように、そっとベッドを抜け出した。
ベッドの下に散乱する二人分の衣類の中から、自分の服を選びだし、手早く身に付ける.
Yシャツを羽織ったときに、ちらりと背後を見やった.
ベッドの上には、規則正しい寝息を立てている死神が一人.
眠っているのを確認し、床に落ちているリボンタイを拾いあげ無造作にジャケットのポケットに突っ込むと、
寝室のドアを開けて部屋をあとにした。
 
そのまま、帰宅するつもりだった。

薄暗いリビングルームを足音を立てぬように、ゆっくりと通り過ぎようとした.
それが目に止まったのは、なんの符丁だったのか。
薄暗いリビングルームの隅。
惹きつけられるように、歩み寄っていったそれは、古いアップライトのピアノだった。
ここの家主の趣味は音楽を作成することだと言っていたから、この楽器があっても可笑しくはない。
おかしくはないが、死神の家にある楽器にしては場違いだな、と何故か思った.
ピアノは、もっと明るい場所が似合うような感じがしたから。
重い蓋を開けてみる.
鍵盤の上に敷かれたビロードを床へ落とした.
目の前に現れたのは、白い、白い鍵盤と黒鍵。
気まぐれに、指で白い、白い鍵盤に触れた.

ぽーん。

高い音が鳴り響く.
家主を起こさぬようにしていた筈なのに、そんなことはすっかり忘却していた。
右手を広げ、その指で白い、白い鍵盤に触れる.
蘇るのは、鋭い激痛の記憶。
そうだ、あの時以来だった。
この楽器に触れるのは。

ぽーん

もう一度、音をだしてみた。
右手は
あの時の激痛を鮮やかに思い出し、僅かに強張るのに、耳は、
耳はこの楽器の音を、懐かしく思い、もう少し聞きたいと思わせる.
何故かとは、思わなかった.
だから、なんとなく、たどたどしい指の動きで、曲らしきものを奏でてみた。
いや、奏でるというよりも、捻り出したという表現の方が正しいか.
それは曲と呼べた代物ではない。
でも、何かの記憶に引きずられる形で、白い、白い鍵盤を叩いていた.
不意に、背後から拍手が響いた.
振り返ると、ここの家主が何時の間にかそこにいたのだ。
先ほどまで、死んだように眠っていた、美しい死神。
「すまない」小さな声で謝る.声は掠れていた.「起こしてしまったな」
 優雅な足取りで、死神は傍らへと来た.
 そして、その楽器に触れる.
「ブラックジャック先生がピアノを嗜むとは、知りませんでした」

ぽーん。

死神の細くて綺麗な指が、白い、白い鍵盤を奏でる.
「、、、子供のころ、リハビリでしたんだ、、指を動かすために」
蘇るのは、鋭い激痛の記憶.
音楽に触れるなどという暢気なものではない。
何日も、何時間も、ただ指を元の通り動かすために鍵盤を叩き続けた.
「機能回復訓練にしては、随分と高度な曲ですね」
「この曲はやってない。でも有名な曲だろう」
「Jesus bleibet meine feude of kantate am Maria heimsuchung
herz und mund und tat und leben」
死神は優雅に言った.「日本では『主よ、人の望みの喜びよ』と訳されていましたか」
「曲名まではしらん」
そんな名前の曲だったのか。
いま、初めて知った.
「もう一度、弾いてください」
「無理だ」即答した.「適当に弾いていたんだ。もう、無理だ」
「もう一度弾きなさい、ブラックジャック」
有無を言わさない視線。青い隻眼は命令口調だ。「私も、貴方とピアノを弾いてみたい」
「、、、適当だぞ」
右手を、白い、白い鍵盤に置く。
死神は左手を、やはり、白い、白い鍵盤におく。
自棄気味に鍵盤を叩いた.
たどたどしい音に、死神の奏でる音が重なり始めた.
一音一音が鮮やかに色を成し、彩られ、優しく小さな曲となってゆく。
深深と歌声のような、それは存在を祈るような、美しいくも荘厳な旋律.
この音を聞いたのはどこだったのか。
確かに、聞いた。
霞みかかる記憶の深い、深い奥底へと、自分の叩く不協和音と死神がそれを覆う音が沈み込んで.
歌を唱える声.
声?

空白。

ピアノの音が途切れたと同時に、体が優しく包まれる.
それが死神の腕なのだという事実に気づくのに、少し時間がかかった。
頭の芯が、しびれたように熱い。
「フィニッシュ」
死神は呟き、そっと頬を拭った.
そのとき、初めて自分が泣いていることに気づいた.
泣いている。何故、なんだろう、これは。
なんだろう、コレは。
曲に酔ったのだろうか。
この死神が彩る美しいピアノの旋律に.
死の誘惑すら感じさせる、優しくも荘厳なこの音に。
「忘れて」
不思議な言葉を死神は言った.
「忘れなさい、ブラックジャック」
「な、、に、、」
「忘れてください、ブラックジャック」
「、、なにを、、」
「忘れてください」
 言葉の真意を問おうとする口を、塞ぐような口付け。
それは、甘く、切なく、それなのに振り払えないほどに、力強い。
「忘れなさい」
繰り返される言葉。
霞がかる意識に、深く、深く沈みこむのは死神の言葉。
「忘れてください」
まるで懇願するかのような、まるで脅迫するような、
死神、お前は何を恐れている?
自分ですら分からない、この涙の理由を、死神、お前は理解しているのか。
「忘れなさい」
深く、深く、沈みこむ言葉。
開きかけた記憶を上書きするかのように。
深く、深く、沈めていく。
死神が恐れる記憶を、深く、深く、深く、、、、。


合奏