もうすぐ冬がやってくる季節になった。
 吐く息も真っ白で、空もどんよりねずみ色。
 早く学校へ行こうと足早に歩いていると、背後から自分を呼ぶ友人の声。
「おはよう!ロミ!」
「あ、おはよ!」
同じ制服を着る彼女たちは、同じ中学の同級生だ。
追いついてきた友人は、ロミと並んで歩き出す。
「ちょっと、聞いたよ!」
おしゃべり好きの友人が、顔を覗き込みながら言った。
「あんた、M高校の平山先輩、ふったんだって?」
「なんで、知ってるの?」
「ブラバンの子たちが言ってたの!先輩、ブラバン出身じゃん?もう噂になってたよ」
「へえ--やっぱりふったんだ」
もう一人のショートカットの友人は「そうだよね-ロミは理想が高いから」
「そんなことない…と思うけど」
少し拗ねたように、ロミは答える。
だがショートカットの友人は「まったまた!」と笑って「だって、理想の人の職業は、お医者さんでしょ!」
「わあ!三高!セレブ思考だ!」
「ち-が-い-ま-す!」軽く二人を睨みながら「それは昔の話!たまたま初恋の人がお医者さんだっただけ!」
「初恋からお目が高い!」
「もう!怒るわよ!」
鞄を振り上げるロミに、友人は、ごめんごめんと笑いながら、謝罪する。
それは、いつものふざけあい。
とても楽しくて、とても大切。
そう、こんな他愛無い時間でさえ、とても貴重なのだ。
それを知ったのは、随分前で、
それを教えてくれたのは、姉のような存在のお友達。
彼女は、不思議なことに、幼い時の自分と同じ顔をしていた。
そして、彼女は、ロミの初恋の相手の奥さんだったのだ。


恋心を自覚したのは、数年前。
それと同時に、その恋は実らないのだと知ったのも、数年前。

初恋の相手は、自分の生命を救ってくれた外科の先生だった。
彼は毎年、一人の少女と共に訪れて、自分を診察をしてくれた。
それは未だに続いている、大切な、大切な行事だった。
少女は、ロミと顔も背丈も一緒ぐらいで、出会った当初は双子のようだった。
だが年月が過ぎ、ロミは小学校を卒業して中学に進学し、背丈もそれに応じて成長する。
しかし少女は、出会った頃と同じ少女のまま。
この10年で多少は成長し、小学生ぐらいにはみえるが、ロミにはとても及ばない。
残酷にも、幼い自分はそのことを少女に尋ねたのだった。

「なんで、ピノコちゃんはちっちゃいままなの?」

 尋ねられた少女は、少し寂しそうに笑って
「ピノコは、しゅこしずつちか、大きくなれない、かやだなの」
幼かった自分には、その言葉の意味がよく分からなかった。
でも、何か、計り知れない深刻な事情があるのだな、ということは、なんとなく理解できた。
それでも、少女は笑っていた。
だって、生きているって、楽しいじゃない!そう笑っていた。
ロミも生死の境を彷徨うほどの、大病を患ったことがある。
だから、どんな姿でも、精一杯生きているということが、どんなに素晴らしいのか、知っている。
毎年来てくれる小さな姉は、ロミにはなくてはならない存在なのだ。

その少女と暮らす外科の先生。
BJと名乗る彼は、ロミに優しかった。
あまり良い噂は聞かなかったし、面と向かって、あの医師に関わるのを止めろという病院の先生もいた。
だが、噂よりも、心無い言葉よりも、実際に触れる彼の優しさは本物なのだから。
いつからだっただろう、あの先生が好きで好きでたまらなくなったのは。
でもロミは知っている。
少女も彼のことが好きなのだということを。

そのことを口にだせぬうちに、一つの大事故が起きる。
あれは、初夏でやたら暑い日だった。
その日はロミは夏風邪の為に寝込んでいて、
ロミの変わりに少女がロミの母とお買い物に出かけていったのだ。
少女は母と、とても仲が良かった。
母と料理をしたり、お買い物に行くのが、楽しみの一つのようだった。
少女と母は元気よく家を出て、家の中にはロミと先生の二人っきり。
ドキドキして、何を喋っていたかなんて思い出せない。
ただ、先生は静かに笑いながら、時々熱を測ったり、聴診器で胸の音を聞いたりしていた。
「…大分、熱もひいてきたな」
何度目かの診察で、先生は告げた。
優しい声だった。
「先生」
額に触れる彼の大きな手に触れた。
少し驚いたような、先生の顔。
「どうした」
囁かれる先生の声に、心臓が大きく跳ねた。
低い男の人の声。とても優しくて、早まる鼓動が止まらない。
「先生は」声が掠れる。でも震える声で思い切って言った。「好きな人、いないの?」
小さく笑って、先生は額から手を放した。
「さてね」
短い回答は、明確には答えてくれていない。
子どもの言うことだと、思ったのか、はぐらかされたのか。
でも、それ以上を聞く勇気もでず、ロミは「そう」と呟くと、布団を被った。
今更ながら、恥ずかしさがこみ上げて来た。
心臓が口から飛び出しそうで、苦しかった。
 それからすぐあとに電話が鳴った。
 電話は町の駐在所からで、母と少女の乗った路線バスが
観光バスと正面衝突したのだという内容だった。
 ロミと先生は、すぐに隣町の総合病院へと向かった。
 待合室にいた母を見たとき、安堵のあまり、その場に座り込んでしまった。
 よかった。お母さんが無事で!
「先生!」
だが母は、先生を見つけると深深と頭を下げて
「すみません…ピノコちゃんが…!他の子を庇って、今治療を受けています」
聞くと、少女は、運転士の「ぶつかる!!」という悲鳴を聞き、
隣に座っていた2歳ぐらいの男の子を、衝撃から守る為に抱きしめ、背中を打ちつけたらしい。
先生はすぐさま処置室に飛び込んで、何やら指示をだしていた。
いや、怒鳴りつけていたという言葉の方があっている。
「X線と脳波に異常がなければその子には指一本触れるな!私が処置する!」
「…しかし…!」
年若い先生はオロオロしていたが、先生は「早くしろ!見殺しにする気か!」
「は、はい!」
その一喝に、年若い先生は、動き出した。
次々と繰り出される指示に看護師たちは、目まぐるしく動き回っている。
それ以上に、先生の手は素早かった。
ロミは初めて、この先生が『天才外科医』と呼ばれる所以を知ったような気がした。
 
その後、先生は重症な怪我人の手術をすることになり、
ロミは一般の病室に移された少女に付き添うことにした。
少女の意識はもどり「あ-びっくりした!」と笑う少女に、母は安心したようだった。
「ピノコは、もう大丈夫らよ!ごめんね、ロミちゃん、お母さん」
「本当に、大丈夫?」
「うん」少女は言った。「明日には退院できゆって。だかや、明日、泊まりにいってもいい?」
「勿論だよ!」
「あいがと!」
 面会終了の時間になり、ロミと母は病室を後にする。
 病室に一人っきりで、寂しくないのだろうか。
 病院から出てから、少し、心配になって、ロミは忘れ物をしたと母に言って、病院へと戻った。
どうせなら、内緒で泊り込んでもいい。
そう考えながら病室の前まで来たときだった。

「自分の身を守らない奴があるか!」

病室から聞こえてきた怒鳴り声。それは先生の声だった。
「ごめんなちゃい」
しょんぼりした。少女の声。
怒られているのだろうか。
ロミは、そっと引き戸の隙間から、中を覗き込んだ。
 ベッド脇にある丸椅子に座る先生の姿が見えた。
 怒っているはずなのに、その表情は、困ったような、哀しいような、複雑な表情だった。
「ほら、でも、ピノコは大丈夫らよ!」
起き上がってガッツポーズを見せる少女に、
「馬鹿、寝てなさい」
「あ-い」
ベッドに横たわり、少女は小さな手を伸ばした。
その手は先生の頬に触れ、その小さな手を、先生は自分の手で包み込む。
「…ちぇんちぇい、ごめんなちゃい…」
少女の声だった。「心配かけて…ごめんなちゃい…だかや…そんな顔ちないで…」
「…馬鹿…」
呟く先生の声は、少し震えていた。
それは、少女が先生に甘えているのではなくて、先生が少女に縋り付いているような。

そっとロミは病室から離れた。

すうっと、一筋の涙が、ロミの瞳から零れる。
叶わない。敵う訳がない。
そう思ったら、胸が熱くなり、痛くなった。
でも、それは分かりきっていたことじゃないか。

失恋したんだ。
誰ともなく、ロミは呟いて、小さく息をはいた。


あんな二人になりたい。
強くなりたい。ピノコちゃんのように。




初恋の歌