(5話) 
 

「ピノコ」
 天才外科医の口から、彼女の名前が唱えられた。
 彼女のお気に入りだった春色のコートは、紅蓮の血液で染め上げられ、その悲惨さを物語る。
 つとめて冷静に、天才外科医は彼女の首筋に指を当てる。
 微かだが拍動する生きた証に、いつの間にか彼の口からは吐息が零れていた。
 後手に拘束していた紐を、天才外科医は己のメスで切り裂いた。
「…すぐに、処置してやるから、がんばるんだぞ」
 固く目を閉じる彼女に、彼は話し掛ける。
 その表情は、悪漢共に向けられていた形相と同一の人物とは思えぬほど、慈しみに満ちていた。
 そして、優しく意識の無い彼女を抱き上げると、迷わずに出口へと向かう。
 倉庫の外では、数台のパトカーが赤い回転灯を光らせ、その周りに制服警官が慌しく走り回っていた。
「ブラック・ジャック!」
 馴染みの警部がすぐに駆け寄ってきた。抱えられた彼女を見て、警部はウッと顔を顰める。
「こいつは…」
「聴取は後日に」
 あまりの状態を見て言葉を失くす警部に、天才外科医は冷たく言い放った。
 その時だった。
 連行されるチンピラ共の中の一人、赤茶髪の男が彼に向かって声を張り上げた。
「強情な女だったぜッ!いい声で泣いたけどなッ!!」
 悔し紛れの言葉だたのだろうが、赤茶髪の男は叫んだことを後悔するほど、顔を恐怖に引き攣らせた。
 天才外科医の殺人級の睨みが、赤茶髪の男を貫いたからだった。






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 半月程続いていた長雨が、やっと止んだ日曜日。
 日差しも出て、幾分温かな気持ちのいい午後に、手塚は岬の家を訪れた。
 未だに包帯が痛々しい彼女は、手塚の持ってきた手土産が有名洋菓子店のケーキだと分かると、子どものように瞳を輝かせて、お茶をいれるね!とキッチンへと篭る。
 それを見届けてから、手塚は済まなそうな顔で、友人である天才外科医に頭を下げた。
「まったく…どれだけ詫びても、申し訳ないよ」
「…いや、これはピノコの行動にも責任があるから…」
 友人に気を使うような言葉を、天才外科医は選んで告げた。
 これでも、大分、マシな方だ。
 事件直後、彼は外界と遮断するかのように、彼女の治療に専念していたのだから。
 チンピラ連中の目の前で、microSDカードを飲み込んでみせた旨を聞いて、まったく呆れてしまった。
 確かに手としては、時間稼ぎにはちょうどいいかもしれない。
 だが、下手をすれば、殺されて腹を切られていたかもしれないというのに。
 先生が、必ず助けてくれると、思っていたから。
 昏睡から覚めた彼女は、にっこりと笑って言ってのけたのだ。
 冗談じゃない。天才外科医と呼ばれてはいるが、スーパーマンではないのだ。
 悪漢から助け出すような能力は、持ち合わせてはいない。
 そんな言葉に、彼女は、でも、とやはり笑う。

「先生は、助けにきて、くれたでしょ?」

 川内の弟も、立派な不良少年だった。
 そんな奴のことなど、放っておけばよかったのだ。何も、彼女が身を呈して守る義務などないのに。
 それなのに、彼女は迷う事無く手を伸ばす。
 それが、自分の身を危険にさらすことに、なろうとも。

「じゃーん!限定50個のガトーショコラッ!」
 無邪気な笑顔で、彼女は銀色の四角い盆に、紅茶セットと、限定50個のガトーショコラを乗せてきた。
 そんな風にしていればいいと、思う。
 だが、彼女はそれを良しとはしない。きっとまた、手を差し伸べてしまうだろう。
 その手が、悪意のものであったとしても。
 彼女の慈しみの光は、どれだけ隠しても漏れ出でてしまうのだ。

 だから、眼をはなしてはならないだろう。
 天才外科医は、そう静かに結論付ける。
 覚悟はしている。光と共に歩むのは、裏世界では危険なことであるけれど。
 だけど、それでも。




(完)