ベッドに横たわる少女の腋下から、水銀の体温計を取り出した。
メモリをみて、彼はアルコール綿でそれを軽く拭く。
「どう?」
 無言の彼に、少女は問いかけた。
 声を出した途端、咽喉の奥が熱く痛みを持つ。
 ケホケホと軽く咳き込む少女に、彼は、口を開けなさい。と言った。
言われるままに、少女はあーんと口を開く。
圧舌支で軽く舌を押さえ、彼はペンライトで少女の口の中を覗き込んだ。
咽喉は真っ赤で、口の中の天井奥の方に灰色の粒粒が見えた。
これが咽喉痛の原因だろう。
「、、、ヘルパンギーナだな」
 彼は静かに言った。
「外から戻ったら、ちゃんと清潔操作してなかったんだろ」
「手洗い、うがいはちゃんとしてたよのさ、、」
「仮にしていても、感染していたら、していないのと同じだ」
厳しい言葉。でもそれは、医療行為に携わる者にとっては当然の事。
「どっちにしろ、不養生だな」
「うう、、ごめんなしゃい、、」
弱弱しく呟いてから、少女はケホケホと咳き込んだ。
「軟口蓋に潰瘍ができているんだ。あまりしゃべるな」
チラリと彼は時計を見た。「熱発から24時間経ったな。座薬をいれるか」
「ええ!!」
少女は熱で紅く染めた頬を更に真っ赤に茹で上げて、必死で顔を横に振る。
「だだだ、だいじょうぶ!そんなおおげちゃよのさあ!」
「お前の体は、高熱には耐えられない」
少女の言葉を遮り、彼は言った.「熱が続いて熱性痙攣を引き起こしたら、脳障害を引き起こすリスクが高い」
「で、、でもお、、座薬じゃなくても、、」
「直腸挿入が一番手っ取り早い」
 彼は立ち上がって、少女の頭を軽く撫でた。
「取ってくるから、逃げるなよ」
「、、うう、、、」
 唸る少女を残し、彼は住居部分に繋がっている診療室へゆく。
医薬品専用の保冷庫から、座薬のケースを取り出した.
室内は静まり返っている。
彼女の声がしないこの家は、こんなにも静かだったのか。と、チラリと思った.
少女の部屋へもどってくると、言い付け通りにベッドの中で唸りながら待っている少女に僅かに安心した.
「ほんとに、、しゅるのお、、?」
 ラテックスグローブを嵌め座薬を削るのを眺めながら、少女は恥ずかしそうに呟いた.
「当然だ」
「今日、、まだおトイレいってないよお、、」
「じゃあ、摘便してやる」
「えええ!?」
 またもや文字通り飛び上がって少女は必死で顔を横に振る.「いいいいいや、いやいやいやあ!」
「なんで」
「はずかしい! 」
「あのなあ」彼は手を止め「私はお前の主治医だぞ。お前は私の患者。何を恥ずかしがる」
「、、、むう、、、」
 そんなふうに言われてしまうと、何も言えなくなってしまう.
 でも、それでも、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ!
 昨晩から咽喉が痛くてあまり食事を摂ってないから、便も直腸まで降りてきてないだろうということで、
 摘便は勘弁してもらう。
 そうこうしているうちに、彼は少女のふとんを捲くって、パジャマのズボンを脱がそうとするのを慌てて止めた.
「じ、、自分で脱ぐから!」
 少女はパジャマのズボンと可愛いらしいパンティを脱いだ.
 いくら主治医だからって、こんな姿、お年頃の乙女は恥らって当然なのだが、彼は顔色一つ変えない.
 まあ、医師なのだから当然だけど。
 彼はあお向けに寝ている少女の両足を直角に持ち上げて、すばやく座薬を挿入する。
「、、、っ、、!」
 少女はギュッと目を瞑って唇を噛み締めた.
 異物の挿入にともなう僅かな痛みと違和感に耐える。 
彼は、しばらく挿入部をおさえつけてから、指を離した.
「おわったぞ」
 声をかけられても、少女は目を開かない.
 瞼の端には小さな小さな涙が滲んでいた.
「ピノコ」
ラテックスグローブを外し、医療廃棄用の袋へと投げ捨てる.
 下着とパジャマを穿かせてやってから、彼は少女の名前を呼んだ.「ピノコ、、終わったぞ」
「、、、、」
呼ばれて、少女はうっすらと目を開けた.
涙の滲んだ大きな瞳が、きらきらと輝いて見える.
「何か摂った方がいいな。ホットミルクは飲めるか?」
こくん。少女は頷いた.
「少し、待っていろ」
「…ちぇんちぇい…」
 部屋を出て行こうとする彼を、少女は呼び止めた.
「どうした?」
「、、、なんれもない、、」
「すぐ来る」
 ぱたん。
静かにドアが閉まると、あとは部屋の中に静寂が残るだけ。
いつもの何ら変わりのない寝室の筈が、今はとても寒々しい。
熱のせいだ。熱のせいなんだ。と少女は何度も自分に言い聞かせる。
ヘルパンギーナ。
少女は熱い頭を回転させて、記憶を引っ張り出そうと試みる。
確か、エンテロウィルスだったかによる夏風邪.三日ほど熱が続くはず。
早く治さないと。
少女は瞳を閉じて、祈るように、念じるように呟いた。
 だって、先生まで夏風邪をひいたら大変だし、何より、
自分が招いたハプニングで彼の仕事に支障を来たすのが厭だった.
申し訳なかった。
少女は布団を被って、寝返りを打った.
三日もまてない。
早く、早く、治さなくちゃ。
早く、早く、、、、。



少女は、ふと目を覚ました.
眠ってしまったらしい。
部屋の中は真っ暗だったが、ベッドの足元が仄かに明るい。
「ちぇんちぇい?」
光に呼びかけてみる.
「気分はどうだ」
 すぐに声が返ってきた。「死んだように眠っていたぞ…」
彼の顔が見えた.光源が遠くてよくみえないが、少し青白く見える.
「、、いま、、何時?」
「ん?、、夜の11時だ、、」
答える彼の声.いつもより早口だ.
 ああ、それでわかった。
 座薬を挿入して、すぐに眠ってしまったのだろう。
あれは朝のできごとだったから、12時間以上眠ってしまったことに彼は危惧を抱いたのだ.
「、、らいじょうぶ、、気分もいいよ、、」
 花のように微笑んだ.
 彼の表情はいつもの無表情。
でも、その紅い瞳は微かに揺らいでいる.
それは他人には分からないもど、刹那に掻き消えてしまったけど、少女は気付いてしまう。
心配をかけてしまった。
心配をかけてしまったのだ。
その事実に、少女は身を切られる思いがした。
「…ごめんなちゃい…」
「何を謝っているんだ」彼は軽く少女の頭を撫でる。「薬が強かったみたいだな。体質に合わないだけだ」
彼は、サイドテーブルに置かれているカルテらしきものに、すばやく筆を走らせた.
「…ちぇンちぇい…」
呼びかけた。喉が熱く僅かに痛み、けほけほと咳きこんでしまう.
「あまり話すな」
 彼はベッド脇にしゃがみこめ、コップを差し出した.「飲めるか?」
少女は頷いて、コップにささっているシリコンストローを咥えた。
こくん、こくん、、2,3口飲み込んだ途端に、喉に水分が簸かかったような感覚がして、
またも、けほけほと咳きこんでしまう.
「ゆっくり飲みなさい」
「…ちぇんちぇい…」
少女はゆっくりとベッドの上で体をおこし、コップを手に取った。
「…らいじょうぶ…もう…らいじょうぶだから…ちぇんちぇいも休んで…」
「余計な心配をするな」
 彼は少女の小さな背に腕を回し支えてやると、少女からコップを取り上げ、
口をコップに直接つけてやる。
 今度は咽ることなく、飲み干す事が出来た.
「…あいがと…」
 微笑んで、少女はお礼を口にする.
 熱は薬で下がったようだが、薬のせいで身体がだるい。
でも、それでも、少女は笑わずにはいられない。
「気にするな」
素っ気無く、答えてしまう.
彼はその小さな体をベッドに横たえた。
「…ちぇんちぇい…」
「大丈夫だ」
 小さな頭を撫でてやる.
大丈夫だ.
それは少女に向けていったのか、それとも自分自身へ言い聞かせたのか.
 ほどなくして、また少女は眠りへと落ちた.
 飲食量も十分とはいえない。
 点滴治療を行うことにした。
 眠っている少女の呼吸を、何度となく確認してしまう。
 規則正しい、呼吸。
 夜は、まだ明けない。




 三日目の朝.
 ベッドの上で少女はう〜んと伸びをした.
 あんなにも痛くてだるかった体は、すっかり軽くなっていた.
 喉も痛くない.
「大丈夫そうだな」
検温結果をみて、彼は言った。「12時間発熱なしだ。ベッドから降りてもいいぞ」
「やっらあ!!」
 ぴょん!少女は元気よくベッドから飛び降りた。
「元気いっぱい!先生、あいがと!」
「よかったな」
 彼は小さく微笑んだ.
 やっぱり元気な声が一番いい。
「ピノコおなかがすいちゃったよのさ!すぐに朝ご飯作るね!」
「俺はいい、ちょっと眠る」
 そのとき、彼は初めて欠伸をした。
 考えてみれば、この三日間、いつ目が覚めても彼は起きていた.
「ちぇんちぇい、もしかして、三日間寝てないの?」
「、、さてね」
 ぽんぽん。少女の頭を叩いて、彼は自分のベッドへともぐりこんだ.
「電話があっても取り次ぐなよ」
「あいよのさ!」少女は、ピ!と敬礼をして「じゃあ、おやしゅみなちゃい」
「ああ、おやすみ」
 少女は遠慮がちに、音を立てないようにドアを閉めた.

 三日間点滴だけだったので、お腹が空いて、お腹と背中がくっつきそうだ。
 とりあえず、買い置きの食パンを2枚齧ってから、手早く天才外科医の分の朝食を作る。
起きたらきっと食べるだろう。
室内は、思ったよりも散らかっていなかった。
ただ、台所の流しには、カップめんやレトルトカレーの残骸が、二つ三つ置かれている。
「…ピノコがいないと、レトルトちか食べないんやから」
それらを手早く洗い、不燃物とプラスチックごみに分ける。
三日も家事をサボってしまったのだ。さて、何からしようか、と少女は小さな頭で考えた。
先ずは、洗濯。それから掃除。冷蔵庫の中を見て、買い物と。
「あれ?」
あれこれ考えている時だった。
居間のテレビがついているのに気が付いた.
 テレビをつけた覚えはない。
 不思議な思いで居間へ行くと、ソファーの上に先ほどベッドに潜り込んだ筈の天才外科医の姿があった。
「ちぇんちぇい!?」それこそ驚いて「どうしたの?やっぱりお腹が空いたの?」
「ピノコ」
 彼は少女を呼んだ。眠たそうな声だった.「最終検温するのを忘れてた」
「へ?」
「こっちに来なさい」
「うん…」
 目をぱちくりさせて、少女は天才外科医の元へと駆け寄った.
 最終検温はさっきしたはず。それから安静度アップの指示が出たはずなのだが。
 体温計を貰おうと手を伸ばした。
差し出された手を握ったのは、天才外科医。
「へ?」
驚く間もなく手を引かれ、前向きで、天才外科医の膝の上に乗せられる形となった。
「ひにゃ!?」
 驚く少女の腋下に体温計を滑り込ませて、そのまま背後から抱きかかえられてしまう.
 まるで、幼い子供の検温をするように。
「ちょっとちぇんちぇい!ピノコそんなことしなくても、一人で計れるよのさあ!」
 抗議の声をあげながら背後を見やると、かくん、彼の頭が少女の肩に降りてきた。
 そこから聞こえてくる、小さな寝息。
「へ…?」
 恐る恐る声をかけるが、反応なし.
 よく眠っているようだ.
 テレビは陽気な幼児番組が流れてくる。
 だが、少女の耳には、内容は全く頭にはいってこない。
 天才外科医の寝息が、耳のすぐ横から聞こえてくる.
 規則正しい優しい息遣い.
 密着した背中越しに伝わる、彼の暖かな鼓動。
 彼の髪の毛が頬にあたり、くすぐったい。
 少女は、身動き一つできず、ただジッと天才外科医の寝息を聞いていた。
 20分ほど経っただろうか.
少し彼の腕が緩んだので、そっと抜け出そうとした。
毛布でも持ってこようと思ったのだ.
だが
「、、だめだ、、」
 低い声.抜け出そうとする少女の小さな体を、力をこめて抱きすくめる.
「まだ、、検温が終わってない、、、」
 呟くと、また少女を腕の中に抱いたまま寝息を立て始める。
 天才外科医の言葉に、少女は小さく笑った。
 嘘つき。検温なんてしていないじゃない。
 でも、それでも。
「ちぇんちぇい」少女は彼の腕を優しく撫でた。「あのね、本当に、あいがと」
「、、ん、、」
 低い声。寝言なのか、返事なのか。
 その腕は緩む気配もない。
 その力強さが嬉しくて、少女は一緒にその瞳を静かに閉じた。



その翌日 安堵した朝