持ち続けるのが辛くなったので、鞄は何所かに置いてきた。 身軽になったこの身体一つ。 薄闇が浸す小さな商店街を、ゆっくりと、歩む。 足が重くなってきた。 冷たい水滴が、やけに身体を濡らすと思ったら、どうやら雨が降ってきたようだ。 ふと、商店街の切れ目の道の奥に、小さな公園があった。 公園か。 まるで、お誂えされたかのよう。 ドクターキリコは、右脇腹を押さえながら、 その公園の小さなベンチの下に座り込んだ。 座り込むと、くらりと意識が眩んだ。 右手を脇腹から離し、内側のポケットから煙草の箱を取り出した。 箱は、ところどころ真っ赤に染まる。 右手に付着した、自身の血液のせいだった。 煙草をゆっくりと吹かし、煙を燻らせる。 いい、夜だと思った。 遠くで、踏み切りの警告音が鳴っている。 静かな夜、自分を濡らす雨。 終るのか。 終れるのか。 摘み取り続けた生命と、同朋と、自らが殺した人々の最後の一呼吸を抱えて、 この悪夢はとうとう終るのか。 この喜劇は、終焉してくれるのか。 それとも、 この悪夢が終わり、再び開く眼前に広がるのは、あの戦場なのか。 ああ、それでも。 何度も何度も何度も。 繰り返される、その悪夢から、その喜劇から、自分は解放される筈がない。 わかっている。勿論、分かっています。 目を閉じれば思い出せる、一人、一人のその表情を。 何十、何百という生命が散っていく瞬間を、総て思い出すことができます。 忘れることなど、赦されない。 摘み取り続けた生命と、同朋と、自らが殺した人々の最後の一呼吸を抱えて そう、その為に生きている。それが、それだけが存在意義。 この死神の化身と呼ばれる自分の、理由。 足早な靴音が遠くから聞こえてきた。 その音は近づいてくる。 キリコは顔を上げた。 薄闇と雨音に遮られて見えるのは、黒いコートの男。 ああ、あれが。 薄く笑みを浮かべながら、キリコは思った。 あれが本物の悪魔であったなら、俺を地獄へと誘ってくれたのに、と。 「キリコ!」 黒いコートの男が、キリコを見つけ、駆け寄って来る。 放っておけばいいのに、と思う。 「お前を呼んでねえよ、ブラックジャック」 薄笑みを浮かべながら、キリコは言った。「俺は本物の死神を呼んだんだ。天才外科医様じゃねえよ」 「死神は、お前だろう」 荒い息。そんなに走り回ったのか、この男は。 「これで、懲りただろう」 BJはキリコの前に膝をつく。「さっさと刺された箇所をみせろ、相当な出血だろ」 「いらねえよ」 「ふざけるな」BJは言った。「ここでお前さんが死んだら、刺したあのガキが殺人犯になっちまうだろ」 「情状酌量の余地は十分ある。父親を殺した死神のあだ討ちだ」 「人殺しの重荷を背負わす気か」 自分の鞄からラテックスグローブを嵌め、淡々と処置を始める天才外科医。 「私の患者を横取りするからだ」 ぽつりと呟く、言葉。 「しょうがねえだろ」キリコは処置する手を見詰める。「もう、疲れたんだと。それに、来月中にまとまった金がはいらねえと、手形が不渡りになる」 弾かれたように、天才外科医は顔をあげた。 射抜くような視線で睨みつける、赤い瞳。 「それに」その赤を見詰めながら、キリコは続ける。「自分にこれ以上、金をかけたくないんだと。死ぬしかないのなら、 いっそ、金の掛からないように、死にたいとさ」 「命は、金で買えるものじゃない!」 「ああ、そうさ。買えるのは、医療だ」 悪徳無免許医師、守銭奴、貧乏人だろうと大金を吹っかける、天才外科医。 悪い噂の方が多いこの男は、なんだって生かすことに拘るのか。 「ここで、どうする気だったんだ」 几帳面な手つきで、縫合する手。 奇跡を生み出すといわれる、男の手。 怒気を孕んだその声に「別に」とキリコは答えた。「始発を待っていたのさ」 「…死ぬ気だったのか」 「さてね」 「…ユリさんは、どうする気だ」 恐らく切り札。嫌なことを聞きやがる。 「ユリは、いい大人だ」 小さく息を吐き、キリコは静かに嘯いた。「俺がいない方が、人生楽だろうさ」 「そんなわけがあるか!」 「お前は、どうなの、先生」 それは禁句。言ってはいけない言葉。 その言葉を聞き、BJの表情が僅かにうろたえる。 「お前は、どうなの、ブラックジャック」 処置する手を、掴んだ。 女のように小さな手。 俺の汚らわしい血液に犯された、天才の指。 卑怯だと、思う。 でも、終焉を引き伸ばされたのだから、これぐらいの代償は許されるだろう。 「お前は、どうなの、ブラックジャック」 もう一度、尋ねる。 今度ははっきりと、うろたえた、赤い瞳。 「…俺は----」 震えて掠れる声。 俺は、その唇が言葉を織り成す様を、黙って見詰めていた。 終らない喜劇