最初は、どうしたらいいのか分からなかった。




 天才外科医と呼ばれる彼の元に来る患者は、みな、最期の希望を胸に訪れる。
 時には縋るように、時には泣き出す寸前のように。
 主治医に宣告された者、多くの医師に死を決定付けられた者。
 その聞き飽きた言葉を覆してくれるのを、皆、期待している。
 だが。
「こいつは、無理ですな。アンタの主治医の言うとおりだ」
「手遅れですな」
 時として、天才外科医は無慈悲な言葉を突きつける。
 それは彼が冷淡だからではない。
 可能性のない偽りの希望を告げるのが、偽りの労いをかけるのが、どれだけ残酷なのかを、知っているからだ。
 言葉を聞き、患者は泣き崩れる。
 時として、恐ろしい呪いの言葉を投げつけてくる。
 だが、天才外科医は、それらを無表情で聞いている。
 真正面から、その言葉を受けているのだ。
 そして、患者が寝静まった頃に、天才外科医は苦しみだす。
 あらゆる医学書、医学データ、論文。
 この世の総ての記録を引っくり返し、読み漁り、検討し、治療法方を考える。
 己の無力感に襲われながらも、彼は一人で、脂汗を流しながら、患者の命を救う方法を模索する。
 それは、先程、患者に冷たく言い放った姿ではない。
 患者の命を救い上げようと、命の限り戦う天才外科医の姿だった。
 それでも、満足のいく治療法が見つかることは、滅多にない。
「私に、話しかけるなッ!!!」
 無理をするなと少女が呟くと、叱責が飛ぶ。
 どうしたらいいか分からず、少女は「ごめんなちゃい」と呟いて、ドアの外へ出た。
 暗い廊下を進むと、患児の母親が青い顔で立っていた。
「あ…」
 少女は、ヤツレタ母親の表情を見ると、胸を突かれたかのように痛むのだった。
 先程天才外科医に、助かる見込みがないと告げられ、母親は泣き崩れてしまったのだ。
 その姿は、我が子を助けられぬ己の非力さを嘆く、哀れな母親の姿だった。
「らいじょうぶ!」
 そんな彼女を勇気つけたくて、少女は声を大きくしていた。「いま、ちゃんちぇいが色々ちらべていゆの…あきらめちゃらめ!」
「ブラック・ジャック先生が?」
 意外だとばかりに、彼女は眼を見開いて、少女を見詰めた。
「うん」少女は言った。「ちぇんちぇいは、天才だかや、絶対に助けてくえゆ…」
「ピノコ」
 静かな声で、少女は呼ばれて振り向いた。
 いつの間にか、天才外科医が廊下に出ていたのだ。
 室内の明かりが逆光になり、彼の表情は伺えない。
「ピノコ、こっちに来なさい」
「先生!」
 母親がぶつかるような勢いで、天才外科医の元へと駆け寄って来た。「あの子は、あの子の治療法は…!!?」
「先程も言った筈だ」彼は冷淡に言い放つ。「見込みは5パーセント。死ぬほうが高い」
「先生…!」
 ぱたん。母親の目の前で、ドアは閉められる。

「余計なことを、言うなッ!」
 鋭い一喝が、少女に厳しく浴びせられる。「今はまだ、模索の段階だ。お前は、どれだけ残酷な事をしたのか、分かっているのか!」
「ご、めんなちゃ…」
「誰にも話しかけるな」くるりと背を向け、天才外科医は言った。「分かったら、さっさと行くんだ」
「…はい…」
 項垂れて、少女は部屋を出て行った。
 彼の言葉が、頭の中を巡っている。
 軽率な言葉だったかもしれない。自分はただ、あの悲痛な面持ちの母親を元気にしたかった。
 そして、彼が患児の為にがんばっていることを、伝えたかった。
 ただ、それだけだった。
 寝室に戻ろうと思ったが、なんとなく隣のベッドを見るのが怖くて。
 タオルを一枚持つと、ガレージへと向かった。
 夏であった為、寒くはなく、タオル一枚でも大丈夫のようだ。
 ガレージの隅に積んであるスタッドレスタイヤの影に腰掛けると、少女はタオルに包まり、瞳を閉じる。
 静けさの中、波音に混じるのは、虫の声だろうか。
 まるで、鈴を鳴らしているかのような、綺麗で澄んだ音色が、聞こえて来る。
「ちぇんちぇい…ごめんなちゃい…」
 この場にいない人物に、少女は謝罪した。
 彼の役に立ちたい。そう常に願っているのに、現実は厳しい。
 今日だって、結果的に怒らせる行動だったのだ。
 天才外科医にふさわしい助手になりたい。そう思っているのに、思いと現実と技術は結びつかない。
 悔しいを通り越し、ただ、哀しかった。
 やはり、無理なのだろうか。
 そう思うと、少女の胸は絞られたかのように、苦しくなった。



 蒸し暑いと思った瞬間、眼がパッと覚めた。
 同時に、場所がいつものベッドではないことに、驚いた。
 そして、ああ、とすぐに思い当たる。
 ここはガレージだった。
 少女が慌てて岬の家に駆け込み、診療室部へと飛び込んだ。
「ピノコ、ドコへ行っていたんだ」
 術着姿の天才外科医が、呆れ顔で少女を見下ろした。
 キャップも被っているため、普段は前髪で隠れている瞳が、今は両方とも見えた。
「今。ちょっと開けてみた」彼は言った。「本手術は今夜だ」
「え、あ、はい!」
「ピノコ」
 天才外科医は顔を逸らして、そして少女に告げた。「俺は、ココを出て行けとは行ってない」
「え」
 天才外科医の言葉に、少女はキョトンとした表情で彼を見上げている。
「だから」彼は眼を逸らしたまま、告げた。「俺は、出て行けとは、行ってない」
「あ、え、うん」
 そうだったな…と思いながら、少女は頷いた。 





良き理解者は、これから



2010.7.25 コウ(不良保育士)
※要は付かず離れず傍にいて欲しい