その岬の家に死神が辿り付いたのは、もう夕陽が大分傾いた頃だった。 水平線ギリギリに保たれているオレンジ色の球体は、沈み込むのをまるで抵抗しているかのようにさえ感じる。 岬の家。それは、彼の有名な天才外科医の診療所。 その玄関口。木製の階段に少女が座っている。 手には、ピンクの可愛いらしい携帯電話を握り締めて。 死神は無言で少女に近づいた。 その気配に、少女は顔をあげる。「…ロクター…」 いつものように、笑ってみせる。 だけどその頬には、涙の跡がくっきりと。 「大丈夫かい」 死神の言葉に、小さく少女は頷いた。そして「ごめんなちゃい…ロクター…」 「…いや…」 携帯電話を握り締める小さな手に、気づいた。 擦過傷。赤く染まるそれは、処置もされずに痛そうだった。 無言で死神は少女の手に触れる。 「あ、こえは…」 慌てて隠そうとしたのを、制して首を横に振る。 言わなくてもいい。誰がしたかなどと。 「…お嬢ちゃんはどっか遊びに言ってきな」 「うん」 大きく頷いて、少女は「じゃあね」と立ち上がった。 「ロクター、ちぇんちぇいを、よろしく」 「ああ」 少女が駆け出した。こちらを一度も振り返らずに、一目散に。 その小さな背中がみえなくなってから、死神は玄関のドアを開けた。 室内は惨憺たるものだった。 あらゆる物が薙ぎ倒され、床は硝子とその他の破片で埋め尽くされている。 大地震でもあったかのような有様だ。 その室内を、死神は迷いなく進む。 あの少女の擦過傷は、恐らく、この室内を荒らした者と同一人物。 大切な少女に傷を負わせてしまったこと、そのことに彼は恐らく気づいてはいない。 書斎と言う名の、天才外科医の個室を開ける。 密閉された空気が、一気に流れ出した。 この部屋が一番荒らされている。 膨大な書籍は、総て床にぶちまけられ、紙書類---恐らくカルテの類だろう----はその書生の上に散らばっている。 そして、その奥にある机に座り、頭を抱える彼の背中。 それは、まるで神に祈るようにも、総てを嘆き懺悔しているようにも見えた。 「帰れ」 彼は振り返る事無く、低く告げる。「俺は機嫌が悪い。貴様の言葉次第では、殺しかねないぞ」 「物騒な先生だな」 一歩、書斎へと入る。くしゃりと踏みつけた誰かのカルテが、足の下で醜く皺寄る。 「聞こえなかったか、帰れ」 「じゃあ、殺せよ、先生」 弾かれたように、彼は立ち上がった。その赤い瞳がぎらりと光を放って。 「望むならな」 「ああ、構わない」 死神は懐に手を差し込み、それを掴むと天才外科医へと差し出した。 黒く鈍く光る拳銃。正真正銘の、人を殺す為だけに作り出された、物。 「ふざけるな!」 差し出された拳銃を、彼は弾き飛ばした。ごとり。重い音を立て、拳銃は床へと落ちる。 そして、彼も床へ…床を埋め尽くす紙類の上へ膝をついた。 混乱しているのか。しているのだろう。いや、ただ荒れているだけなのか。 だが 「逃げるなよ、ブラックジャック」 下がる頭。その横にしゃがみ、死神は彼の髪の毛を掴んで顔を挙げさせた。 食いしばる唇は、とっくに色をなくして、死人のよう。 「覚えておくんだな」死神は告げる。「気の遠くなる程遠い希望は、絶望としか思えない人間だっている。自分が正しいと思うのはただの傲慢だ。忘れるな。覚えていろ、あの母親を殺したのは、お前だ」 「リハビリで!」それでも彼は叫ぶ。「リハビリで回復可能だった!元通りとまではいかなくても!」 「それでも、子どもの将来を悲観する親だっている」 その赤い瞳が見開いた。カタカタと微かに震える音も。 ああ、残酷なことをしているとは、思う。 だが 「そうだろ、ブラックジャック」 答えを待たずに、死神は彼の死人のような唇に喰らいつく。 微かに震える体。ああ、俺は甘い男だと思う。 だがそれは、この男のためだけじゃない。 それだけじゃない。 「やめろ!やめ…この変態!」 暴れる彼を床に押さえつける。抵抗するたびに、誰かのカルテがくしゃりと歪む。 お前の為だけじゃない。 これは、これは、これは。 いつも言うのだ。あの少女は俺に「先生を、よろしく」と。 敵わないと、思う。その深い思いは、ただの愛情だけだというのか。 君は、君だけが、この男を見続けることができるのだろう。 まるで、それが使命かのように。 君の使命