注意!この文章は当然フィクションです。実在する団体、施設等に酷似していても、まったくの無関係でございます。 また、この文章は障害者の生命軽視、安楽死を推奨、助長を目的にはしていません。 あくまで創作でございますので、よろしくお願い致します。 通っている医科大出身の整形外科医が施設長を務める、障害者入所施設への見学実習だった。 郊外に位置するその施設まで、タクシー乗りあわせで向かう。 いつもの臨床実習などとは違っての短時間の見学であるので、 皆は軽いドライブのようだとか、楽しそうに話し合っている。 そんな中、彼は静かにその会話をきいていた。 まじめな彼は、積極的に会話に参加しないことを、皆は周知していた。 だから、特に気にはしていなかったのだ。 一人をのぞいては。 真面目で寡黙な彼と乗り合わせたのは、辰巳だった。 その施設に向かうため、タクシー数台は山側にある国道をひたはしる。 窓にうつる森林を見詰める彼のその表情、いつもと違うなと、感じる。 それは、苦しそうな、ともすれば押し潰されそうな、息苦しい沈黙。 深く、深く、落ちていく奈落の闇が少しずつ近づいてくる、 息が詰まりそうな、圧迫感。 「間」 声をかけても振り向かない。 辰巳はポケットから小さな黄色い箱を取り出して、びりりと破り、中身を取り出した。 そして、ひとつを自分で咥え、もうひとつのそれを、彼の口に押し込める。 「!?」 彼はびっくりして、口を押さえた。 口腔内に押し込まれた甘い固形物の味が広がる。 「カロリーメイト」辰巳は口をもぐもぐさせながら「昼飯まだだろ?」 「、、、、ああ」 ごっくん。 飲み込んでから、彼は答えた。 それを見て、辰巳はポケットから缶コーヒーを取り出して、手渡す。「ブラックだけど、いいよな」 「ああ」受け取ってから「お前、いつもこんなの持ち歩いているのか?」 「まあな」 辰巳は笑った。屈託のない笑顔で「いつでも飯が食べられるように、常備しているんだ」 言葉にぎこちなく笑ってみせて、彼は缶コーヒーをあける。 その指先が、微かに震えている。 緊張しているのか。 「迷子になるなあ」 「は?」 唐突な科白に、間は思わず隣の友人を見た。 「だから」 こちらを見た彼を見ながら、辰巳は言った。「初めての場所だと、絶対に迷子になるの、俺は」 「…そんなに広くはないだろ」 やはり、ぎこちなく答える. 細められた彼の赤い瞳が、微かに揺れたような気がした。 そう、それは最も辛い思い出であったに違いない。 一度だけ、辰巳は彼の子どもの時の話を聞いたことがあった。 あれは、夏。 学部の泊りがけの実習の際に、ぽつりと彼が教えてくれた、医師を目指している理由。 整形外科学の症例。 あれは、自分のことなのだと。 彼はかつて肢体不自由児であった。 事故に遭い、彼は瀕死の重態であったところを、奇跡ともいえる手術で命を救われた。 そう、言葉で語るのは簡単だ。 だが、医学を学ぶものとして、その手術がいかに困難で危険で、そして勇気あるものか。 命を生かすことの戦いを知った。 整形外科学の症例、本間医師による少年K・Hの全身整形術。 もはや伝説とも言われているその手術患者少年K・Hが、彼であることをしっている者は、数少ない。 彼は手術を受け退院後、障害者入所施設の肢体不自由児棟に入所した。 そして2年間、独立歩行ができるようになるまで、自分の意思通りに体が動くようになるまで、必死にリハビリを続けたのだ。 かつてできたことが出来ないもどかしさ。 そして、憎悪、殺意、復讐。 黒く、冷たい感情。 それを誰にも気づかれず、誰にも打ち明けず、ただ体を動かす事に明けくれていた。 憎しみを心に秘め辛辣な現実を生き抜いた、時間。 そう、あの施設もこんな山奥にあった。 「間、団体行動な」 念を押すように、友人は告げる。 「分かってる」 「本当に?」 「信用無いな」 「そりゃあ、な」 じ---と見つめる真剣な表情の友人に、彼は「今度は分かってる」 「ほ、ん、と、う、だ、な?」 「本当だ」 「なら、よろしい」 もったいぶって答える友人の姿に、小さく笑う。 彼---間 黒男の指の強張りは、いつの間にか消えていた。 その施設は肢体不自由児棟と重度心身障害者棟をもつ複合施設であった。 見学対象は、肢体不自由児棟。 だが、間はひとり重心棟の方へと向かった。 先ほど、友人に念を押されたにも関わらず。 正直、怖かったのかもしれない。 肢体不自由児棟には、かつての自分のように手術を受けリハビリにはげむ子供たちが、子犬のように転げまわってはしゃいでいた。 自分が入所していたころよりも、ずっと明るく、健全そうではあったが、あの頃の記憶が微かに重なると、苦しくなる。 まだ、自分のなかでは処理しきれていない、記憶。 思い出。 重心棟は、重度の障害を持つ大人の施設だ。 肢体不自由児棟とは違い、体も大きく、寝たきりの人が多い。 気管切開をし、人工呼吸器に繋がっている人。 ベッドから起き上がれず、寝たままの姿勢で吸痰する人。 肢体不自由児棟とは違い、時間がゆっくりと流れているような印象を受ける。 彼らは、これからの生涯をこの施設内で過ごすのだろう。 だが、彼らの表情は思いのほか穏やかなものが多かった. スタッフと思われる人間が、幾つかのグループを作り、レクリエーションを行っている。 余暇活動が充実しているのだな、と思った。 こんな施設も悪くない。 いや、むしろこんな施設にあの人が入所していたら、もしかしたら、何か救いになったのかもしれない。 、、、いや。 間は自分の言葉をゆっくりと否定した。 あの人は、望まない。と。 あの人は、望まない。 負担になることを避けた人だもの。 あの人は決して望まない。 息が、苦しくなった. 自分が紡ぎだした言葉に、眩暈がした。 指先が冷たくなっていくのが、自分でも分かる。 振り切るように、足早に、病棟の廊下を進んでいった。 病院と違い、施設の廊下は人の通りが意外と少ない。 病棟の奥、ナースステーションの斜め向かいにある病室に差し掛かった時だった。 静かにその病室の引き戸が開き、白衣の男性が出てきた. 一瞬、その男を見て、間は戸惑った. この場所にいて白衣を着ているのだから、医師か少なくとも医療関係者だろう。 戸惑ったのは、この男性がこの空間に、明らかに不似合いだったからだ。 男性は真っ白だった. 白衣だけではなく、全体が真っ白で、それはまるで宗教画にでてくる、大天使を想像させた. ただ一点、男の片方の瞳は黒い眼帯で覆われている。 その不似合いな不調和が、白い容貌の中のただ一つの黒が、この世ならざる者であるかのような 美しい臭いと不思議な調和をもたらし、間の目を惹きつけた。 綺麗だな。 素直に、そう感じた. 男性は、病室の外に人がいることに、僅かに驚いたが、その感情はすぐにかき消され、 美しいポーカーフェイスを纏う. それは、ほんの数秒だった初対面の瞬間。 「先生を呼んで!」 ナースステーションで鋭い声が響き、俄かにざわつきはじめた。 男性は、ちらりとそれをみるた。 「ちょっと、来い」 間の手首を強引に掴むと、大股で廊下を奥へと進む. 日本語だった。 なんて不似合いな。 背後から、緊張した声と、バタバタと足早に駆けつける足音。 「発作!?」遠くで医師の声が聞こえる。「意識は!?」「状態は!?」 「アレスト、1分です」 「3階からAED、救急車呼んで!」 「…!」 看護師の、静かだが悲鳴のような声と、ところどころに聞こえる単語に、全身がひやりと冷たくなった. 幾つか聞こえる単語から推測されるのは、容態の急変。 それも、手遅れに近そうな。 もしかしたらこの急変は、この男性が出てきた病室の事ではないだろうか。 そう悟ったとき、間の脳裏に一つの単語がよぎる。 「あんた…」間は手を振り切った。「あの病室で何をしたんだ」 「別に」悪びれもせず、男性は言った.「処置しただけだ」 「処置だと…!」 ぎらりと睨み付ける紅の瞳に男性は笑ってみせた。 笑ってみせたのだろう。だがそれには感情がなく、まるで仮面のような造られた笑み。 男性は笑いながら、紅の瞳の胸倉を乱暴に掴んだ。 そして、廊下の奥にある非常口を開け、無造作に扉の外へと放った。 「、、、っ!」 非常階段の踊り場の手すりに、間は背中を打ち付けた。 鈍い痛み。手摺を掴み、崩れそうになる体をなんとか支える。 「新人かい?」 男性は自分も非常階段へと降りてきた. 背後で静かに非常ドアがパタンとしまる。 「…学生だ」 「ほう」 男性は、つかつかと間の前へと詰め寄ってきた。 そして彼の顔を覗き込む. 感情に揺れる、その紅い瞳を。 その瞬間、その男の拳が腹に突き刺さった. 「ぐっ、、!」 突然の衝撃に腹を抑え、思わず上体を屈めて前のめりになる. それを待っていたかのように、下から突き上げられるような拳が顔にめり込んだ. 「!、、、っ」 重い拳だった。唇が切れ、滴る血液がルージュのように色を染める。 「やわいな」 それは、悪意を凝縮したかのような皮肉の笑み。 見る者を一瞬で凍らせてしまいそうな、それでいて、 惹かれてしまいそうな…。 「理想を持つのは結構だが、生と対極にある死をも見ておかないと、患者にとっても迷惑だ」 棒読み。医師としての教科書のような言葉。 刹那、弾かれたように、間は男性に殴りかかった。 右の拳がその人の頬に当たる。 間の反撃に、その人は、先ほどのように、僅かに目を見開いた。 再び、その人は笑った。 そして、再び間の手首を掴む。 渾身の力を込めてその手を振り切ろうとするが、手首を掴む手はぎりぎりと締め上げて動きもしない。 左手で殴りかかっても、当然のように捕まった。 両手首を壁に叩きつけられる。 びくともしないこの男の力に、初めて恐怖を覚えた。 目の前に近づく、隻眼の青い瞳。 それでも、彼は目の前の男を睨み付けるのを止めなかった。 屈しない。たとえ、このまま殺されようとも。 「K、、HAZAMA、、」 愉快そうに、男性は間のケーシー白衣の刺繍を読んだ。 「人を生かすことは本当はできない」男は言った。「救える命よりも亡くす命の方が数倍多い。 医者は人を救うことはできねえよ」 言葉。それはこの男の持論なのか、本音なのか。 「臨床をでて地獄をさっさとみるんだな」 「地獄なら、、」間は答えた。燃えるような紅い瞳がその人を射抜く。「地獄なら、、とっくに味わったさ、、」 強い意志を語る、剥き出しの刃のような視線。 それは、彼の唇の端から滴る鮮血と同じ、真紅の色. ああ、とその人は直感した.。 それは真実だな、と。 「じゃあな、坊や」 両手をパッと放すと、ひらひらと、手を振り、その人は非常階段を下りていく。「議論はまた会えたらな」 「まて、、!」 呼びかけるが、彼は止まらなかった. 追いかけようにも、足に力が入らない。 腹部の鈍い痛み。嘔吐感。頬の鋭い痛み。彼の言葉。 長い銀色の髪を靡かせる、長身の男。 地獄を見ろと言っていた。 あいつは、見たと言うのだろうか。 ならば、あいつは悪魔なのか。 脳裏に一瞬だけ浮かぶ、あの光景。 暗い病室の窓際のベッド。横たわるあの人の呼吸器を医師が操作した瞬間に現れた、 大きな鎌を携えた…それは、あの人の命を刈り取りに来た、死神。 「間!」 非常口が開いた。 息を切らした辰巳だった. 左右をみやって、彼を見つけると、驚いたように駆け寄ってくる。「そろそろ戻るけど、、どうしたんだ?」 「ああ」 「喧嘩でもふっかけたのか?」 「ちょっとな」 口の端を拭って、立ち上がった。 まだ、足がふらつく。 心配そうに覗き込む友人を見やって、間は言った。 「死神に会った」 と。 死神に遇う