「お前は、辰巳先生のところにいろ」 「え?なんれ?」 受話器を置いたBJの言葉に、ピノコは少し困惑した。 君には知られたくなかった、現実 深夜の電話は、手塚医師からのものだった。 慌しくでかける準備をする天才外科医に、いつものようにお供をするつもりだった、助手の少女への言葉。 少女は、困惑した。 手塚医師が院長をつとめる手塚医院は、少女も何度も行った事のある場所だった。 そう、つい、先日にも。 「あの患者ちゃん…なの?」 険しい表情でステアリングを握る彼に、少女は尋ねてみる。 その問いかけに、天才外科医は「ああ」とだけ、答えた。 手塚医院と、辰巳医師の下宿は割と近い。 職員用駐車場に車を止めると、足早に駆け寄ってくる影がみえた。 辰巳だった。 「こんばんわ、ピノコちゃん」 にっこりと笑いながら、辰巳はピノコの手を握った。 「悪いな」 BJの言葉に、辰巳はこれぐらい、と首をふる。 「でも」辰巳は言った。「少し…過保護すぎないか」 その言葉の返答を、BJはしなかった。 手塚医師の仲介で、彼の天才外科医はこの医院で手術をした。 脳腫瘍の摘出手術だった。 勿論、脳腫瘍の摘出は脳外科を専門とする医師なら、可能だ。 問題は、患者が妊娠していることだった。 普通なら、患者が妊娠している時に手術などしない。 母体への影響は、すぐに胎児への影響に繋がる。 しかし、この患者の腫瘍は、今摘出しなければ、母体の生命に関わるところまで成長していた。 そこで神の手と称される天才外科医に、白羽の矢がたったのだ。 脳外科手術は、普段よりも何倍もの集中力を要求される。 ましてや、今回の患者は健康体ではないのだ。 切開部位1ミリ、血液1滴だって無駄にはできない、難手術に、BJはなるべく自分の負担を軽くするために 自分を良く知る、自分の手術に一番立ち会っている助手を連れて行くことにした。 ピノコである。 彼女は、初めて目にする妊婦の大きなお腹に、初めは驚き、そして 嬉しそうに、密かにはしゃいだものだった。 「あの、お腹のなかに赤ちゃんがいゆんらねえ…」 うっとりと呟く少女の姿が、脳裏を掠める。 今、思えば、少女を連れていくべきではなかった。 『出血した、胎盤早期剥離で帝切中だ』 手塚医師の電話は、患者の急変を告げる物だった。 脳外科手術は完璧に終った。だが、胎児への影響は予測できない。 早産も、想定はしていた。最悪のケースとして。 産み月よりも3ヶ月ほど早い、出産だ。 胎児が無事であるかどうかは、わからない。 手塚医師からの連絡の後、BJはすぐに友人である辰巳に連絡をとった。 ピノコを預かってもらうためだった。 少女は、困惑したような表情をみせた。 それもそうだ。 海外出張ならまだしも、近所の手塚医院への出向きに、何故、預けられるのか。 しかし、一人でこの少女を家に置いておくわけには、いかない。 万が一、少女が手塚医院を尋ねてきたら その小さな命が消そうな現実を、見てしまったら 辰巳は「少し…過保護すぎないか」と言った。 彼も医師だ。それも、リハビリセンターの医師だ。 そう言われても仕方が無い。 分かっては、確かにいるが。 胎児は一命を取り留めた。 1200グラムの小さな命。保育器で様様な管に繋がれ、眠っている。 容態次第では、NICUのある小児医療センターに搬送するところだが、今のところは大丈夫だろう。との判断だった。 大丈夫だろう。それは、今の現状に対するその子の容態についてだが。 両の手のひらに、すっぽりおさまってしまうほどの、儚い生命は、懸命に胸を上下させて、 精一杯生きていた。 診察室の明かりをつけ、手塚医師はシャーカステンに赤ん坊のX線写真を挟み込んだ。 黒いフィルムの中に、赤ん坊の影像。 頭の部分は、白い塊で覆われている。 「…やはりな…」 天才外科医は呟いた。 脳室の周囲に真っ白な影像に浮かび、脳の異常を示している。 「脳室周囲白室軟化症…脳幹もか、小脳も一部欠けている…」 胎内発達遅滞と共に、出産時のトラブルも原因か、母体の手術も要因なのかは分からなかったが、 この赤ん坊が健常に発育するかは、正直見込めなかった。 脳性麻痺。 これがこの赤ん坊の背負う、病名だった。 「それは、あちらさんの家系でしょう!」 考え込むBJの耳に、廊下の声が飛び込んできた。 赤ん坊の祖母だろうか、随分と大きな声で叫んでいる。 「姑さんだよ」声を聞き手塚医師が言った。「随分、気の強い人でね…まあ、今回の手術やらなんやらに 随分、奥さんに辛く当たっていたよ。ダンナさんが何も言えない人のようでね」 病気になるのは、本人のせいではない。 こと、脳腫瘍に至っては、予防策などないのだから。 早産だって、母胎のせいではない。 安全に無事に生まれて欲しいと、誰だって願っているのだから。 手塚医師が家族への説明をする際に、BJも立ち会うことを申し出た。 脳腫瘍の手術執刀の責任者だからという理由ではあった。 なるべく、分かりやすいように、手塚医師と、産科医と小児科医は家族へと説明をした。 ショックな内容ではあった。 待ち望んだ赤ん坊は、五体満足ではないと宣告されたのだから。 「それは!」 一番に口を開いたのは、姑だった。「あの嫁のせいなのでしょう?うちにはそんな家系はありませんよ!」 「これは、遺伝ではありませんよ」 「だから、反対だったのよ、あんな我侭な娘!子どもの一人も満足に産めやしない!」 「お母さんのせいでは、ありませんよ」 「あんな嫁、うちの家系に入れるわけにはいきませんよ!まったく、迷惑だわ!」 「いい加減にしろ!」 一喝したのはBJだった。「一番辛いのは、患者だ。当事者でもないのに、勝手なことを喚くな」 その言葉に、姑は顔を真っ赤にして震わせ、ぎゃあぎゃあ喚くのを、舅らしき男性に連れられ 廊下へ出た。 取り残されたのは、気の弱そうな、赤ん坊の父親。 「…無理なんですか」 父親は消え入りそうな声で、尋ねた。「あの子は、障害児になっちゃうんですか」 「障害の程度は、発育してみなければ、わかりません」 「人工呼吸器はついているんですか」 「ええ、でも3ヶ月もすれば、とれますよ」 「じゃあ…」 男性は言った。 「呼吸器を…外してください」 診察室内を凍るほどの静寂が支配した。 それはテレビで度々流れる台詞。新聞でみかける言葉。 意味を、その言葉の意味を分かっているのだろうか。 そんな疑問を投げかけたくなるほど、いとも簡単に父親は口にした。 突然、男性の身体がふっとんだ。 天才外科医が、怒りにまかせて右拳を、男性にたたきつけたからだ。 「ブラックジャック!」 慌てて止める手塚医師の手を振り切り、天才外科医は男性の胸倉を掴み上げる。 「貴様…命をなんだと思ってやがる…あの赤ん坊は、あんたらを親として選んで生まれてきたんだぞ!!」 「わ、私には…そんな器はありません…」 半泣きになりながら、男性は「…障害児の親なんて…無理ですよ、離婚させられる…」 「お前の未熟な事情で、子どもひとりを殺すのか!?」 「障害をもって生きても、辛いだけしょ…」 「ふざけるな!!」 またも振り上げる拳を、慌てて小児科医と産科医も交えて、ようやく止めた。 「そのことは、また明日にでも」 手塚医師は、とりあえずそう答えるしか、なかった。 保育器の中で懸命に生き続ける、小さな命。 実の父親に、否定された命。 「ブラックジャック先生」 新生児室の前で呼びかけられ、振り向いた。 さきほどの、小児科医だった。 小児科医は照れたような笑顔をみせ、「さっき、スカッとしましたよ。僕も殴りたかったですよ、あの父親」 そして、声を落として、言った。「今、ふえているんです。先天性の難治性疾患の乳児の積極的治療拒否。 終末期医療のように、選択を迫られる…まさか、小児科医になって、そんなことをしなけりゃならないなんて 思いもしませんでしたが、時代…なんですかねえ」 五体満足であることを当然のように要求し、 少しでも違うと切り捨てる。 重く悩んだ末の親もいる。 障害児はいらないから、と言い捨てる親もいる。 だが、子どもは?子どもの意思はドコにある? もの言わぬ赤ん坊。 その小さな命にだって、意思はある。 ただ、それを伝えられないだけで。 その意思が『生きたい』と渇望しても あなた方は、その命を切り捨てるというの? 朝。外来時間の前に、辰巳とピノコがきた。 早くに電話があったのだ。 連れてくるな。 そう、天才外科医は告げたのだが、辰巳は静かに反論する。 「…ピノコちゃんには、ありのままを見せるべきじゃないのか?あのコもこのケースに関わっているんだから」 ありのままを、みせるべき。 医療に携わる以上、生命の選択を無視することなどできない。 でも、それでも、親に否定される命を、 生きる可能性を否定された、小さな命があるという、この現実を あの少女には知られたくないというのは、 単なるエゴなのだろうか。 穢れない純白な魂に、この醜い現実を見せたくはないとおもうのは。 「赤ちゃん、可愛いかったね」 帰りの車の中、晴れやかに少女は言った。「元気になるといいね」 「そうだな」 フロントガラスをみつめ、小さく答える。 少女は、赤ん坊をみて、やはり感嘆の声をあげた。 そして少女は呟くように言ったのだ。 「おめでとう」と。 その言葉の意味が指すところを、天才外科医は理解できなかった。 だが、その言葉を囁いた少女の表情は、慈愛に満ちていた。 まるで、その赤ん坊を包み込んでしまうかのような、柔らかな微笑と、その眼差し。 それは聖母画像にも似た、慈しみにみえたのは、徹夜のせいか。 新生児室のあと、ピノコは母親にお祝いを言いたい、と言った。 一般病棟へとうつったばかりだったが、数分ならと、面会を許された。 「先生は、まってて、女どおちの、おはなちやから」 そういって、少女は一人、病室へと入っていった。 そこで、どんな会話があったかは、わからない。 だが、少女が病室から出てきたとき、母親は、笑っていた。 泣きながら、笑って、少女を見送っていた。 少女も血の繋がった姉から、存在を否定された命だった。 しかし、彼女はそれを乗り越える。 あの赤ん坊に込めた「おめでとう」という言葉は、命への賛辞だったのではないか。 「あの、お母さんだったら、らいじょうぶらよ」 にっかりと笑って、少女は言った。「すっごい重い障害があってもね、子どもはお母さんが だいすきなんだって!そう、辰巳先生が言ってたよ」 「そうか」 「誰か、うーーーーんと好きなひとがいたら、生きててよかったっておもうんらよ」 「そうか」 「ピノコ、先生、大好きだよ」 言葉が落ちる。 無邪気に告げる、その少女の言葉が、胸に落ちる。 「そうか」 短く、答える。 ステアリングを握る手に、僅かに力を込めながら。 生きる可能性を否定された、小さな命があるという、この現実を この少女には知られたくないというのは、 単なるエゴなのだろうか。 穢れない純白な魂に、この醜い現実を見せたくはないとおもうのは。 しかし、あの赤ん坊に「おめでとう」と言えるのは、この少女だけではないか。 あの赤ん坊に込めた「おめでとう」という言葉は、命への賛辞だったのではないか。 生きることの素晴らしさを知る、少女からの、メッセージではないか。 でも、医師である自分は思うのだ。 君に知られたくなかった 現実。 を。