SS『岬の家の日常風景』
[外出]

 「出てくる。夕方には戻る」
 いつもの端的な物言いで、天才外科医は外套を羽織、いつもの鞄を手にする。
「いってらっしゃい」
 それを、助手の少女は、いつもの笑顔で見送っていた。
 恐らく、少女はこの外出が仕事関連ではないことに、気づいてはいるはず。
 だが、少女は何も言わず、いつものように見送っていた。
 自宅の並びに、自宅と同じく木製のガレージがある。
 寄り添うように建つそこには、天才外科医の愛車である黒いセダンが駐車されてあった。
 ドアを開け、天才外科医は慣れた動作で運転席へと座る。
 そして、鞄を助手席へ置こうとした時に、はじめて気づいた。
 助手席には、花束が置かれていたのだ。
 白い花びらのそれは、10本ばかりあり、ちょっとした豪華なものだった。
 花の名前は、カーネーション。
 今、五月には、一番目にする花だろう。
 ああ、と思う。
 これを用意したのは、助手の少女だ。
 少女は、今日、今、この時間に、天才外科医が外出するのを予想して、これをここに置いたのだ
 その証拠に、花弁も葉もみずみずしくしゃんとしている。つい先程まで、水を吸い上げて手入れされていた証拠だ。
 毎年。少女は天才外科医がこの日に外出することに、気づいていたのだろう。
 五月の第二日曜日に。

(敵わんな)

 苦笑しながら、天才外科医は、エンジンをかけた。
 無言の少女の好意に甘えよう。
 今日の行き先。
 母の墓前にこの花を飾ることにしよう。

 母の日の、カーネーションを。
  (君の心遣いに、感謝して)

[ 02 :不注意には気をつけて]

昼食を食べ終わった、穏やかな午後。
 いつものように、食後のコーヒーを助手の少女が運んできた。
「どうじょ、ちぇんちぇい」
「ピノコ」
 目敏くそれを見つけ、天才外科医は少女の小さな手をつかんだ。「これは、どうした」
「ほえ?」
 何のことか分からず、少女は小首を傾げる。
 だが、天才外科医は、僅かに表情を顰めながら「これだ」と自分がつかむ少女の手を指差した。
 指の先には、小さなバンソーコが巻かれている。
「これは、どうして出来た傷なのかを、聞いている」
「あ、こえ?」
 少女はようやく理解したと、笑ってみせた。「こえは、さっき包丁できっちゃっやのよさ」
「血はでたのか」
「ちょっとらけ」
「みせてみろ」
 少女が答える前に、天才外科医はバンソーコをぺいッとはがすと、少女の小さな指をマジマジと見る。
「たいちたこと、ないよのさ」
「それは、私が判断する」
 即答する彼に、少女は口を噤んだ。
 勝手な判断をして、怒らせてしまったのだろう。
「ちぇんちぇい…ごめんなちゃい…」
 素直に謝る少女に、天才外科医は、小さく息を吐いた。
「大した事はないな」彼は言った。「お前の指は、生身なんだ。それに、傷口から感染したら、取り返しがつかなくなるから、ちゃんと報告するんだ。わかったな」
「はーい」
 消毒をし、透明のフィルムを貼り、天才外科医は助手の処置を終える。
「あいがと、ちぇんちぇい」
「ああ」
「コーヒー、いれなおすね」
「ああ」
 パタパタと足音を立てて、少女は台所へと向かう。
 それを見詰めながら、天才外科医は溜め息を吐いた。  まったく。
 少女は感染症が一番の天敵なのだ。もう少し、自分のことに気を配ってほしい。
 自分が、ちゃんと見守らないとダメだな。
 そう、天才外科医は、結論付ける。
 使命感だけではない、思いと共に。
[ 03 :今年はチョコナシなのよさ!]

「ちぇんちぇい…ピノコがちゅきな、2月のイベントちってゆ?」
「2月…?」
「ちょ…2月」
「…日本初の人体解剖実施日(7日)」
「ちがゆ」
「メンデルが遺伝の法則を発見した(8日)」
「ちがゆ」
「ペニシリンを発見した日(13日)」
「…ちがゆ!」
「日本初の脳死移植(28日)」
「…もう、いいッ!!!」  少女は驚くほど大きな声で言うと、小さく告げた。「ちぇんちぇいが、覚えていないんなら、いい」
「…ピノコ?」
「お夕飯、用意すゆね」
 ぱたぱたと、少女は台所へと向かっていった。

※先生、酷すぎます…(汗)
 
[ 04:嘘]

”状況が動いたら、電話する”
 内戦の絶えない、無法遅滞。
 雑音混じりの電話をしてきたのが、半月前。
 テレビで僅かに報道される、遠い国の戦禍など、この国では他人事だ。
 だけど。
 雑音混じりの電話から半月後、少女はカレンダーを捲る。
 とうとう、月が変わってしまった。
 時の流れを痛感する。
「大丈夫」少女は、小さく呟いた。「今日はエイプリル・フールだもん…」
 天才外科医から連絡が無いのは、エイプリル・フールだからだよ。
 きっとそうやって、私を騙そうとしているんだよ。

   だから、明日。
 希望は明日へとつなげられる。
 明日には、きっと、電話がくる。
 そう、信じて、今日を過ごす。
[ 05:間が悪い]

 しまった。
 岬にある診療所を尋ねた死神の化身は、自分の迂闊さを呪ったが、もう遅い。
 呼び鈴を鳴らした末に、顔を覗かせたこの家の主の表情は、殺気に満ちている。
「おれ、帰るね」
 そうだった、今日は水曜日だった。
 死神は曜日を思い出し、くるりと回れ右をしようと、した。
 だが、その流れるような自慢の白銀髪を、ちぎれんばかりに掴んで、天才外科医は口を開く。
「お前は、俺を馬鹿にしているのか?」と。
 その殺気を帯びた口調と声色に、死神は「滅相もない」と動きを止める。
「ソウイエバ、アナタサマニヨウケンガゴザイマシテ、ソレユエノホウモンニゴザイマスノヨ」
 死神の言葉に、天才外科医は長髪を掴む手を放し、扉の奥へと消えた。
 安堵の息を漏らし、死神は靴を脱いで、入室する。
 毎週月、水、金曜日。昼間に、この岬の診療所に近づいてはいけない。
 何故なら、悪鬼の如くの形相、地獄の業火を背に背負った、最大級に機嫌を損ねた天才外科医がいるからだ。
 理由は、至って簡単。
 彼の助手が、バイトへ行っているからだ。
 半年前。めでたく念願の年相当の身体を手に入れた、助手の彼女が言い出したことなのだ。
「私、女医としての武者修行する!」
 鼻息荒く意気込む彼女には悪いが、我が国家において”女医”を名乗るには、医学系の大学に入り、そこで医学を学ぶ必要がある。そして、医師国家試験に合格しなければならないのだ。
しかし。
「私、免許なんていらないもん」
 シレっと言ってのける彼女には、感心しない。だが、彼女が最も敬愛する外科医も免許を持たずに、医療行為を行っている。そのため、彼女の中で、医師免許の重さが欠如しているのだろう。
だが、医療行為を医師または看護師の資格を持たない者が行うのは、違反行為に当たるのだ。
 そのことを、天才外科医はこんこんと言い聞かせても、まったくもって、彼女は聞く耳をもたなかった。
 そんなわけで、彼女は週3回、天才外科医の友人である手塚医師のつとめる手塚医院へ武者修行しに行くことを、勝手に決めてしまったのだ。
 だがやはり、実践に勝るものはない。
 彼女は、病院の仕組み、カルテの書き方など、天才外科医から学ぶことのできない事を、貪欲に吸収していった。
 それは、喜ばしいことだった、が。
 面白くない。はっきりいって、面白くない…と拗ねるのが、天才外科医だ。
 勿論、彼女のまでは、そんなことはいわない。
 だが内心は、面白くない。かなり面白くないのだ。
「おれ、帰っていい?」
 そして運悪く尋ねてきた死神は、小二時間ほど、天才外科医の愚痴につきあわされたという。

 
 
  2010.5.23再掲載