空港まで来なくてもいい。 そう言われたので、少女は東京駅まで来ていた。 「うっわあ〜」 思わず少女は声をあげるが、その声だってざわつく構内では響かない。 忙しなく動く人の壁。バーゲン会場の如くに混んでいるお土産コーナー。 それもそうだ。 今日は睦月の4日。帰省ラッシュのピーク。 「はぐれないでよ、ピノコちゃん」 辰巳が、その小さな手を、きゅっと握る。 たまたま用事があったから、と少女のお供を申しでたのだ。 そして、それは正解であったと、辰巳は安堵する。 これだけの人だ。 迷子…は、この少女ではないかもしれないが、 幼い弱者を狙う犯罪の類は、人が多いほど発生する率は高い。 ましてや、最近はその手の犯罪が多発している。 なんと恐ろしい世の中になったものだ。 「あえ?」 新幹線改札口のすぐ目の前に、5段程の階段がある。 土産物をたくさん買い込んだ家族連れなんかが、その階段の端っこで 束の間の休息をとっているのだが、少女の目には。 「…あの、お姉ちゃん…どうちたのかな?」 何組かの家族連れの中に、一人だけ若い女性が階段に腰掛けている。 膝を抱え、ぼんやりと人の流れを見詰めていた。 その光景自体、なんら不思議ではない。 だが、少女には。 「…らいじょうぶ…かな?」 心配そうに呟いた。 この少女は聡いだけでなく、何か、ある種の勘が働く時があるように思う。 それは、この少女が健全な発達を経てこなかったからなのか。 それとも、外見の幼さに反して、その精神年齢は成人に近いからなのか。 何れも想像と憶測の域でしかないが、 少女は、目に見えぬ心を感じ、心に負う、目に見えぬ傷を感じとり、 目に見えぬ涙を掬い上げて、その小さな手を差し伸べる。 そこには何の躊躇もない。 自然で温かな、少女の仕草。少女はその可愛いハンカチで涙を拭ってくれる。 それが当たり前のように。 ててて…と駆け寄り、少女は女性の前に立った。 慌てて、辰巳はその小さな背中を追う。 「らいじょうぶですか?」 明るく、それでも心配そうに少女は声をかけた。 声をかえられた女性は、驚いたように顔をあげる。 それは、そうだろう。 少女とはいえ、見知らぬ人間から声をかけられるなんて、この国では滅多にない。 「あ、はい、大丈夫…」 言葉が止まった。視線の先には、少女を追いかけてきた人間がうつる。 「…たつみ…せんせい?」 不思議そうに、女性は名前を呼んだ。 「え?」辰巳は目をぱちくりさせて、そして「………ああ、もしかして……2病棟の…」 互いにその偶然に驚いて、しばらく目をぱちくりさせていた。 つまり、二人は同僚だったのだ。 どの業種でもそうだろうが、制服のある職業だと、職場外で出会うと瞬時に判断できない。事、白衣や作業着であったなら、尚更だ。 彼女は辰巳の勤める児童福祉施設の看護師だったのだ。 お茶でもしましょう? そう誘ったのは、少女だった。 その言葉に促され、看護師と医師は駅構内の喫茶店に入ることとなる。 「あたしは、ショートケーキ!」 無邪気に笑うその愛らしさに、二人は思わず微笑んだ。 そして、女性の瞳が大きく揺れ、そして辰巳を見る。 静かに口を開いた。 「…肥後くん…亡くなったんですね」 と。 「…う、ん」辰巳は答える。「重積発作で…。帰省中の車内で静かに逝ったらしい」 年末で30日だった。 病棟にかかってきた、叫び声のような、泣き声のような救いを求める電話。 余程、動転していたのだろう。救急車を呼ぶように告げたのを、辰巳は思い出す。 「…私、知らなくて…」 伏せられた瞳から、一筋、涙が伝う。「…何も…昨日、初めて知ったんです…」 声が震えていた。 若いな、と、辰巳は不謹慎にも思う。 彼女は、今年、入職したばかりの新人ナースだ。 所属病棟の患児が亡くなったという経験は、今が初めてなのだろう。 「先生、私…」やはり俯いたまま、彼女は「…私…考えちゃうんです…肥後くんや藤田さんや…みんな、障害をもっていなければ、 施設に入る事なんてなかったんですよね…看護師なんて、病気や大怪我、人が障害を負わないと、成り立たない職業じゃないですか。 …まるで…まるで、生命が障害を負って生まれるのを待っているみたいで…!まるで…!」 「ちょんなことないよのさ」 するりと、少女の言葉が入ってきた。 「ちょんなこと、ないよのさ」少女がもう一度言った。「生きていたら、だえでも怪我や病気をするもんなのよさ。だかや、そえを治療する ロクターやナースが必要なのよさ」 「でも…」 「いなかったら、ピノコも生きていられなかったよ!」 ニッコリと力強く、少女は告げる。「接すゆ人が『可哀想』って気持ちでいたや、そえは患者ちゃんにやっぱり失礼なことだとおもう。 でも、一緒いてくれて、おはなちして、接してくえゆ人は、誰でも必要だよ?」 力のある言葉。 『そんなことない』と言い切る少女は、誰よりも生命に関して、生に対して、死に対して敏感で、冷静だ。 ぷるるるる。 唐突に、可愛い音楽が少女のポシェットから聞こえた。 「あ、ちぇんちぇいだ!」 ごめんなさい。と断って、少女は店の外へ出た。 嬉しそうに電話で話す少女の笑顔が、垣間見える。 「誰でも、ぶつかる壁だよ」 辰巳は言った。彼女は、ゆっくりと彼を見る。 「ボクも10年ぐらい前にぶつかったよ」と、辰巳。「信念を持って、自分の職務を全うする。…それがボクの出した答えだけど」 「ありきたりですね」 彼女は笑ってみせた。「…そうですね。『可哀想』って気持ちは、上からの目線ですよね」 少女の言葉を、彼女は口にした。 そう、あの少女は信念を持って生きている。 あの頑固で偏屈で素直で真っ直ぐな、敬愛する天才外科医と共に。 片手で携帯電話を握り締めながら、もう片手を少女は大きく振った。 表情は満面の笑み。 人の流れの中から、黒い外套の男性が、やはり携帯電話を片手に歩んでくる。 少女の目の前まで来て、彼は携帯電話を閉じて、内ポケットへとしまいこんだ。 「お帰りなちゃい!ちぇんちぇい!!」 少女の言葉に、彼は鞄を床に置き、膝をついた。 「ただいま、ピノコ」 柔らかに返す、言葉。飛びついてくる少女を抱きとめて、その小さな頭を撫でてやる。 その光景を眺めつつ、完全に出るタイミングを逸した辰巳は、 まいったな。と呟きながら、二人に見つからないように、店を出た。 『先に帰るね』 と、少女の携帯電話にメールしながら。 共に歩む、君の信念