「田中さんで最後です、お疲れ様でした」 看護師の言葉に、辰巳はほっと息をついた。 時計をみると、もう14時をまわっている。 「いけね」辰巳は慌てて立ち上がった。「15時からだよね、回診」 「急いで食べてくださいね」 くすくす笑う看護師に、じゃあ、いってくると告げて、辰巳は診察室を飛び出し、医局へと向かった。 医局のドアを開けると、院長が他の医師と笑いながら雑談をしている。 「おお、辰巳くん」 ドアを開けて入ってきた彼に、院長は片手をあげて呼び止めた。 「回診に間に合ったね、もう駄目かと思ったよ」 「すみません、段取りが悪くて」 「いやいや、キミの評判がウチを繁盛させているんだよ」 院長の言葉に苦笑しながら、辰巳は自分の机に座り、カバンからコンビニで買ったおにぎりをとりだして、貪るように食べた。 改めて、腹が減っていたことに気づく。 そのとき、医局のドアがノックされた。 「どうぞ」 院長が答える。 おずおずと顔を覗かせたのは、若い女性の理学療法士だった。 「あのお」 辺りを見回し、奥の机でおにぎりを頬張っている辰巳をみつけて、笑顔になる。「辰巳先生、ちょっと…」 「なに?」 彼は二つ目のおにぎりを机の上に置いて、立ち上がった。 「外来の山崎さんのことなんですが」 「ああ、骨形成不全の学くん?」 「いま、きているんですよ」 「わかった、今、いくよ」 辰巳は院長に「ちょっと遅れます」と告げて、また医局を飛び出した。 「忙しい男だな」 呟くように、院長は言った。「真面目なのもいいことなんだがな」 と。 辰巳が今勤務しているのは、病院に併設されているリハビリセンターだった。 リハビリテーション事前診察の主に小児を担当している。 とにかく、辰巳の診察は長いことで有名だった。 初対面でも安心できるような、辰巳の人柄のせいもあったが、彼は信頼にあつかった。 そして、それは職員の間でも。 辰巳はセンター内の部署どこから呼ばれても、嫌な顔を一つせず、すぐに駆けつけた。 それは、今のような、お昼時であっても。 「少し…足の裏に突起があるねえ、いつから痛かったの?」 優しい声で辰巳は尋ねる。子供は小さな声で「このあいだ…」とだけ答えた。 「このあいだじゃ、わからないでしょ!」 声を荒げる母親に、辰巳は「まあまあ、お母さん」と宥めるように言った。「足を強くする為にいれた釘が、少し出てきているんだと思います。レントゲンを撮りたいところだけど、お母さん、時間ありますか?」 「ええ、すぐに撮れますか?」 「掛け合います。少しまってもらえますか?」 そう告げたとき、館内放送で、辰巳の名前が呼ばれる。院長回診の知らせだった。 「ちょっと、電話してきますね」 柔らかく笑って、辰巳はリハビリ室の内線をとった。 「先生、いそがしい?」 子供が理学療法士に尋ねる。 「まあねえ」と、答えた。「辰巳先生、人気あるから」 「まなぶね、辰巳せんせいに手術してほしいなあ」 「手術になりますか?」 不安そうに母親が理学療法士にたずねた。 「写真の結果次第ですが」 「辰巳先生がするんですか?」母親が言った。「以前、中立病院の外科の先生だったって聞きましたけど」 「そうらしいですね」理学療法士は言った。「整形の手術は辰巳先生が執刀しましすよ」 「お待たせしました」 息を切らせて、辰巳は「いま、レントゲン室にいけばすぐに撮れます」 「わかりました」 「中伊さん」辰巳は理学療法士に「時間があったら、つきそってあげて。終わったら呼んで、たぶん2階で回診してる」 「わかりました」 「じゃあね、まなぶくん、またあとで」 手をヒラヒラふりながら、辰巳は廊下を足早に2階へと向かった。 回診も終り、他部門からの呼び出しをこなして気が付くと、19時をまわっていた。 「今日も大活躍だったね、辰巳くん」 医局でお昼の残りのおにぎりを食べる辰巳に、院長が声をかける。「今日は、もうあがりなさい」 「大丈夫ですよ」わらって辰巳は「独り身ですし、最近手を抜いていたので総括がたまりっぱなしで」 「だがねえ…」 言葉をさえぎる館内放送。 『業務連絡。辰巳先生、辰巳先生、外線1209をおとりください』 「外線?」 珍しい。外線が辰巳のところへかかるなんて滅多にない。 「早く、帰れってことだよ」 電話をとる前に、院長が笑う。「じゃあ、お先に」 「お疲れ様です!」 声をかけ、辰巳は受話器を持って外線番号を押す。「はい。リハセンター小児整形、辰巳です」 『…俺だよ』 電話からの声に、辰巳は驚いて飛び上がる。「え、はざ…ブラックジャック!?」 素っ頓狂な声をしていただろう。電話の向こうで押し殺したような笑い声が聞こえる。 「久しぶりだな」辰巳は、まだ驚きからさめない。「…てか、よく俺がここにいるって知ってたな」 『まあな』短く答え『実は頼みがあるんだ』 「頼み?」 ますます珍しい。 この電話してきた男は、孤高の天才外科医として医学界では有名だった。 そんな孤独な天才と、平凡な勤務医である辰巳との接点は、大学時代の友人という、ありふれた理由であった。 学生時代、一浪した辰巳とこの友人とは、兄と弟のような親しさもあった。 だが、とある一件以来、疎遠となっていた。 他人を頼るのをなにより忌み嫌う天才は、はっきりと言った。 「子供の洋服を買ってきてくれ」 「は?」 また、間抜けな声で答えてしまった。 『だから』天才外科医は言った。『女の子の服、一揃え頼む』 「…オペ患か?」 『そんなところだ』 「どのくらいの?」 『身長は98cm、体重は10Kgほどだ』 「…。」 服のサイズのことを聞いたのだが、まあ、いいか。 辰巳は「わかったよ、3時間をくれ」と言って、電話を切った。 身長98センチというと、3歳児ぐらいだろう。 とはいえ、辰巳は独身なので、洋服一揃えといわれても、何を用意すればいいのかわからない。 彼は事務室へ行き、センター入所時の持ち物リストを貰って、それを参考に揃えることにした。 愛車に乗り、郊外の大型ショッピングセンターへと向かう。 最近は夜遅くまで営業しているので、助かった。 彼は、一人では決して足を踏み入れることのない、可愛いらしい洋服の並ぶコーナーへと向かう。 「何か、お探しですか?」 営業スマイルなのか、にっこり笑う女性に話しかけられ、辰巳は顔を紅潮させた。 「えっと、、」彼はしどろもどろに「女の子の服を探しに、、」 「おサイズは?」 「身長は98センチぐらいで、3歳ぐらいです」 「じゃあ、100ぐらいがよろしいですわね」 女性は辰巳のみていたメモをチラリと覗き見して「娘さんへのプレゼントですか?」 友人へのです、、と答えようとするが、店員は、いいお父さんですね。だの、娘さんは幸せですね、だの 口を挟ませてくれず、辰巳は逃げるように商品をお買い上げすると、ショップを後にした。 ああ、焦った。 一息ついて、辰巳は時計を見た。 約束の時間がせまっている。 そろそろいくか。駐車場へ向かう途中、可愛らしい雑貨屋の店先にならぶヌイグルミがめにとまる。 確か、オペ患って言っていた。 服も持参していないところをみると、きっと訳アリの子どもなのだろう。 辰巳はウサギのヌイグルミを手にして、レジへと向かった。 約束通り3時間後に、辰巳は友人宅を訪れた。 愛車を降りると、波の音が大きく聞こえる。 友人の家は海岸沿い、岬の先にあった。 それは丁度、人とは関わりたくないという、友人の佇まいによく似ている。 両手いっぱいに荷物を抱え、辰巳は呼び鈴を押す。 待ち構えていたかのように、すぐにドアが開いた。 「よう」 友人の短い挨拶。 「久しぶりだな」辰巳は笑って「適当に買ってきたから、足りないものがあったらまた言ってくれ」 「悪いな」 口数少なく、答える。 だが、それも慣れたものだ。昔からそうだったから。 「入れよ」 一歩ひいて、友人は辰巳を家の中へ入るよう促した. 促されるまま、辰巳は家の中へと入る. 通されたのは、彼の仕事場ともいえる、診察室だった。 医療用ベッドの上に、小さな影が横たわっている。 それは、確かに、少女だった。 栗色の柔らかそうな髪をゆらして、静かにこちらの方を向く。 大きな瞳は、どことなく焦点があっていない。 よく、見えていないという印象を受ける。 電話でその旨は聞いていたが、辰巳は僅かながらに驚いた。 その少女は、綺麗だった。 いや『綺麗』という言葉では語弊がある。 一体なんと形容すればいいのか、辰巳自身にも検討がつかない。 ただ、敢えて言うのなら、 その少女は人形のようだった。 愛らしい顔に表情はあまりなく、一点の狂いもない、総てが計算されたかのような造形。 いや、だが。 ただ一点。その唯一つがこの少女を、『生き物』であると認識させられる。 それは、瞳。 どことなく焦点のあっていない、その大地のような深い色の瞳が、 その生命力に溢れた力強さを、意思の強さを、その愛らしさを、匂わせた。 「助かったよ、ありがとう」 「ああ」 声をかけられて、我に返ったように答えた. 友人は少女の傍へ行き、膝を折った。 少女の目線にあわす為に。 「私の友人の、辰巳先生だ」 ゆっくりと、友人は少女に話し掛ける。「彼は、私と同じ…医者だ」 「、、、、、」 少女が口を開いた。 微かに唇が震えている。その小さな唇から、掠れたような空気の音と共に、 少女の小さな『声』が洩れた。 「、、そうだ、、」 友人が言った。少女が言おうとした意思を、汲み取ってか。 「はじめまして」 辰巳も、少女の目線に合わせようと、膝を折った。「辰巳です。お名前、教えてくれるかな?」 殊更ゆっくりと、辰巳は問い掛けた。 その問いかけに少女はゆっくりと、口を動かした。 声は、聞こえない。 掠れた小さな空気が、微かな音としてきこえるだけ。 だが、その唇の動きは、何かの単語を言おうとしている動きだった。 「…ピノコだ」 友人が、答える。 その友人の言葉に、少女は僅かに笑って見せた。 僅かの笑みは、とても嬉しそうにみえた。 その笑顔を零す頬を、友人がそっと手の甲で撫でた。 何気ない仕草だった。 だが、それは、その一瞬の行動は、とても優しかった。 正直、驚いた。 この男が、友人が、幼い少女にこんなにも優しい仕草をするなんて。 「眠りなさい」 友人は、風のように囁いた。「また、明日会える。心配ない」 少女は微笑んだ。安心したかのように、安心させるかのように。 その小さな唇が動く。声は、聞こえない。 「ああ」友人は答えた。「おやすみ。ピノコ」 「俺のこと、誰に聞いたの」 辰巳の問いに友人は「手塚に聞いた」と、答えた。「お前、手塚が呼んだのを断ったらしいな」 「ん、、まあね」 小さく辰巳は笑ってみせる。「急性期医療より今の方が性にあってるよ。俺は」 答える彼を友人は無言でみつめる。 友人の赤い瞳が語る。 それは嘘なんだろう、と。 以前、辰巳は総合病院に外科医として勤めていた。 急性期医療現場で外科手術を幾つもこなし、忙しく走り回っていたあの頃に比べれば、 今のリハビリセンターの整形外科医の方が性にあっていると、思う。 「俺はそんなに跳びぬけた医者じゃないからな」 信念はあった。志もあった。だが、その志半ばで、辰巳は総合病院を解雇される。 解雇理由は、目の前の友人、悪徳無免許医師と名高いブラック・ジャックに、自分の患者の手術を執刀してもらったからだった。 彼は腕は確かだが、所詮は闇医者。 犯罪者と交友のある医師を誰が雇うだろう。 友人に執刀してもらったことは、今でも後悔はしていない。 だが、外科医師会でも、既に自分の名はあがっている。 辰巳はただの勤務医だ。 医師会の面目の元、見せしめに潰すのは簡単だろう。 もはや、外科医では、無理な状況ではあった。 それでも、大学時代の同期である手塚医師は自分の病院へ誘ってくれた。 だから、手塚の好意を断った. それでも、今の職にありつけたのは、手塚と前の職場である中立病院の整形外科医師のお陰だった. 外科から整形外科への転向をすすめられた。 君は、小児科か小児整形の方が向いているよ。 そう、勇気付けられ、一度はやめようとした医師という職を続けることができた。 「人生綱渡りだよ」 いや、医師という職業にいること自体が危ういとも言えた. だが、それでも、まだ医師という職業にいるのは…。 「あの子は、ただのオペ患というわけではないんだろ」 自分が呼ばれた理由。 手塚ではなく辰巳が呼ばれた理由。 「どう、みえる」 友人は尋ねた。感情はなく、平静に。 「…随分、未熟だね」そして、冷静に辰巳も答えた。「能力的に未熟というより、経験不足による遅滞の気がするけど」 リハビリセンターの小児整形医ともう一つ、辰巳は児童相談所の医学的所見判定医もつとめている。 つまり、それが、辰巳の呼ばれた理由だろう。 友人は、そうか。と一言漏らすと、ファイルを差し出した。 少女のカルテだった。 受け取り、ざっと目を通した辰巳の表情は、みるみる強張った。 「…これ…本当なのか?」 当然のことだが、思わず口に出して尋ねた. カルテに虚偽や空想などを記載するわけがない. だが、それが分かっていても、信じがたかった. いや、信じられない. 奇形嚢腫から取り出した内臓を整形したなど、そんなことが出来るのか。 だが。 彼の反応を、友人は無言で見詰めている. だが、彼ならば、できるかもしれない。 「…色々言いたいところだけど」 ぱたん。カルテを閉じた. カルテを友人に返す。それを受け取るのをみてから、言った.「保護、養育者となるべき人物がその子の引取りを無視、 または存在を認めないのなら、警察と児童相談所への通告義務が発生するよ」 少女を人間とするならば。 「…そうか」 やっぱりな。そう言いたそうな呟きだった。「その後、どうなる」 「保護者が引き取らないのなら、乳児院…いや、養護施設か、または医学的フォローが必要なら肢体不自由児施設、 あるいは重症心身障害児施設…。あるいは」 或いは。 言葉を切って、辰巳は友人の瞳を覗き込んだ。 「主治医たる君が、彼女を養女もしくは未成年後見人として引き取るか、だ」 嘗ての本間医師のように。 「…そうか」 先ほどと同じように、友人は呟いた. 「出生届は?」 「いや、まだだ」 「どうする気なんだ?」 辰巳の言葉に、友人は沈黙をとる。 「出生届は出すべきだ。」 判定医としての、児童福祉に関わる医師としての意見を、辰巳は述べる。 「あの子を社会的に存在させる証明がなければ、君はあの子を助けたことにならないだろう?」 「助けた、つもりじゃないけどな」 「ブラックジャック」 歯切れの悪い、友人。辰巳は僅かに苛ついた。「君は、あの子をどうするつもりなんだ? 手元に置いておくつもりなら、然るべき手続きをとるべきだ」 「俺の養女にするのは、あの子が気の毒だろ」 笑いを含んだ声だった。 それは自嘲か。「未成年後見人にしろ、家庭裁判所が、俺を選任するとも思えんがね」 「…だったら…」 「あの子の主治医は俺だ」凛とした声だった。「あの子が並みの生活が送れるようになるまで、俺は手放す気はない」 自嘲から一点して、曇りの無い凛とした言葉。 それだけは、心に決めていたのか、覚悟していたのか。 友人の言葉は、強さがあった。 だが、勿論それだけでは、根本的な解決にはなっていない。 「わかったよ」 ため息混じりに、辰巳は「つまり、君は社会的にあの子の保護養育者には向いてないと重々承知の上で、 あの子を手放す気は無い、と」 「、、、、、。」 「わかった」辰巳は言った。「未成年後見人には、俺がなる。まあ、なんとかなるさ…これを宛てにしていたんだろ?」 自分が、呼ばれた理由。 手塚ではなく、辰巳が呼ばれた理由。 「、、悪いな、、」 「まったくだ」辰巳は言った。「でも、君には貸しがあるしな。それに、今更だよ」 辰巳は、他にも未成年後見人となったことがある。 独身であるから、身元引受人として、となるだろうが。恐らく。 家庭裁判所も、辰巳の選任には問題ないとみるだろう。 じゃあ、そろそろ、と辰巳は立ち上がった。 思いがけない、夜だった。 玄関へと歩み進めるなか「ああ、それと」と最後の疑問を投げかける。「なんで、あの子を整形したんだよ」 友人は少し驚いたような表情をみせた。 そして、その瞳を伏せる. 言葉を慎重に選び出しているようだった。 「そうだな」そして友人は口を開く。「会ってみたかったのかもしれないな」 優しい声色だった。 柔らさを帯びるその言葉は、きっと本人は気づいてはいない。 きっとそれは、本音だったのだろう。 「そうか」 満面の笑みを、辰巳は浮かべて答えた。「じゃあ、また来る」 「ああ」 つられたのか、友人も微かに笑みを浮かべていた。 外へ出ると、陽が水面から半分、 手を伸ばせば鮮やかなオレンジ色に染まりそうな輝きで、浮かんでいた。 まるで、水平線に沈みこんでいきそうな、まるでそれは夕日のような色彩だった。 だが、その陽は、ゆっくりと、ゆっくりと、その輪郭を現す。 まるで、夕日のような朝日だった。 会ってみたかったのだと、友人は言った。 それが、彼にとって何を意味するのか、どう作用するのか。 まるで、夕日のような朝日だと思った。 終焉からはじまる夢物語のようだと。 夢に見る物語のようだった、 と。 『その日、夕日のような朝日が照らしていた』