天気は曇り。
 明るい太陽の日差しが恋しいと思える、梅雨明け宣言前の今日。
 湿気が篭る、天才外科医の診療所の住居部分。
 本来ならリラックスをする場所であるリビングは、極度の緊張状態を強いられていた。
「…怪しいとは、思わないか」
 がん!グラスをテーブルに叩きつけながら、ここの診療所の主である天才外科医は口を開く。
「ほとんど毎日、入り浸りだぞ!これは何かあるに決まってる」
「…何かって…なんだよ」
 天才外科医の向かいに座る、白銀髪の死神は、持参したモルト・ウィスキーの瓶を少しずつ、少しずつ、奴の手から遠ざけていた。
が。奴は死神の努力空しく、瓶をがばっと掴むと、自分のグラスへ並々と注いでいく。
「あんまり飲むと、お嬢ちゃんに叱られるぞ」
思わず口から出た言葉。
その言葉を聞き、天才外科医は眼光を鋭くして死神を睨みつける。
その一睨みで、人間の5,6人は殺せそうだな、と死神は物騒なことを考えていた。
 天才外科医が昼間からアルコールを摂取しているのには、訳がある。
 事の起こりは、一月前。
 日本領土内で観察可能な皆既日食ブームのせいだった。
「かいきにっちょくって、なあに?」
 あまりのフィーバーぶりに、助手の少女が疑問に思うのも無理は無い。
 天才外科医は皆既日食の説明をしてはやったが、何せ、理解力は18歳相当でも、
経験や知識、単語、語彙等はまだまだ未熟な少女に、分かりやすく説明するのは、容易なことではない。
 幼稚園の先生に聞け。と言いたい所だが、現在は夏休みの真っ最中。
 仕方なく、天才外科医は、専門家を頼ることにした。
 国立科学博物館へ、少女を連れて行ったのだ。
 丁度、科学博物館でも皆既日食のイベントをしており、面白、分かりやすく、少女は知識を得ることができたのだ。
 少女が科学などに興味をもったことを、天才外科医は好ましく思ったものだったが。
「ピノコちゃんの、保護者の方ですか?」
 学芸員が話し掛けてきたのだ。
 なんでも、沖縄へ皆既日食を見学するツアーがあり、少女を是非、参加させてほしいのだという。
「あんなに熱心で、聡いお子さんは初めてです。是非、生の体験をすることによって、
ピノコちゃんの知的好奇心を満たせてあげたいんです」
あまりの熱心な誘いだった。
だが、生の体験や知的好奇心よりも、天才外科医は気になる点が一つあり、なかなか首をたてにふらない。
「ちぇんちぇい、おねがい」
少女が上目遣いの視線で頼み込むと、もう断れなかった。
「…仕方が無いな」
「やったああ!」
はしゃぐ少女を見て、学芸員の青年も「ありがとうございます」と頭を下げる。
気になる点。それは、この学芸員が少女が大ファンである俳優に、かなり似ているところだった。
「…………で」
「あれ以来、毎日、毎日通い詰なんだぞ!!」
 沖縄への合宿は楽しかったらしく、ダイヤモンドリングが見られたことを、興奮気味に、少女は話してくれた。
少女は同年齢の幼児とくらべても、絶対的に経験が少ない。
だから、今回は、とてもいい経験になったとは思う。
だが。
「毎日通わなくたっていいだろう!合宿中に何かあったんじゃないのか!?」
「…だから、何かって…なんだよ」
 呆れたように死神は尋ねる。
 だいたい、科学に興味が出てきたのなら、毎日通ったっておかしくはないと思うのだが。
「だから、たとえば!」と、天才外科医。「合宿中に、何か、弱みを握られたとか!」
「なんの」
「写真を撮られたとか!」
「…アルバムに貼ってあったの、見たぞ」
「交際を強要されているとか!!」
「……………。」
「プロポーズされたとか!!」
 何をどう返したらいいのかわからず、死神は途方に暮れる。
 まあ、半分はアルコールのせいもあるのだろうが、この天才外科医は、医術以外の分野では、
まったく非常識極まりないと、死神は小さく溜め息を吐く。
もう、帰ってもいいかしら。
「お?」
 暴れる寸前の天才外科医様から視線を逸らすと、死神の隻眼に一冊の本が目に止まる。
「…『こどもにわかりやすく説明しよう!理科編』?」
「あ、いや、それは!」
 突然、天才外科医が慌てたように取り乱す。
「へえ」にやり。死神は皮肉気に口元を歪めて「悔しいの。学芸員にお嬢ちゃんをとられて」
「馬鹿、違う!」天才外科医は叫んだ。「昨今は医学分野でも、個人の意思を尊重する動きが見られる。
だから、患者が治療法を選べるように、インフォームドコンセントやセカンドオピニオンを受けやすくする為にも、
医師側も分かりやすく丁寧な説明をする能力が求められているんだ!」
「…………ほう」
インフォームドコンセントはともかく、この天才外科医の口からセカンドオピニオンという単語が出てくるとは、
この異常気象はこいつのせいだったのか…と死神は納得した。
納得はしたが、そんなことを口にすれば、命が危ない。
 まったく。
 恋する男は心配性で困る。


********


「たっらいま〜ついでに、おかいものもしてきたよのさ」
 死神を追い出して数分後。
 元気な声とともに、少女が玄関のドアを開けて、明るく叫ぶ。
「…遅かったな」
「え、ちょう?」
顔を覗かせた彼の言葉に、少女は時計をみあげるが「…まだ、2じらよ?」
「今が一番日差しが強いんだ。熱中症になったらどうする」
「ごめんなちゃい」
 少女はそう答えてから「ちぇんちぇい、あいすこーひー、のむ?」
「ああ、たのむ」
 エコバックの中身を冷蔵庫へ入れてから、少女は冷蔵庫からガラスの水差しを取り出した。
「あ、できてゆ!」
 水差しの中には、綺麗な黒色の液体がほどよく冷えていた。
 コーヒー好きの天才外科医の為に、水出しアイスコーヒーを作ってみたのだ。
「きえいないろ〜」
 大き目のガラスのコップに、アイスコーヒーを注ぐ。
 作り方を聞いて、彼の為だけに作った、愛情たっぷりの手作りアイスコーヒーだ。
「ちぇんちぇい、よろこんでくえゆかな」
 自分用にカルピスを作ってから、少女は涼しげなコップをお盆に載せて、リビングへと向かう。
「あえ?」
リビングに入ってから、少女は怪訝そうな顔をして、クンクンと鼻を利かせる。
「…なんか、におうのよさ…」
「気のせいだろ」
シレっと天才外科医は答える。
ちなみに、さきほどまでアルコールを摂取するために使用していたグラスは、死神が綺麗に洗って元の位置へ。
空になった瓶は、証拠隠滅の為に、死神が持って帰ったのだ。
換気も(死神が)したし、ファ○リーズも(死神が)したのだが。
「…おかちいなあ…??」
 小首を可愛いらしく傾げながら、少女はテーブルにお盆を置く。
「はい、どうちょ」
「ああ」
 涼しげなコップを手渡され、彼は一口それを飲んだ。「うまいな」
「ちょう?」途端に。少女は破顔した「よかった!こえ、科学館でつくりかたをおちえてもらったの!」
ぶほ。
「やら!ちぇんちぇい!」
 思わず天才外科医は、コーヒーを噴出した。
 少女は慌てて、フキンでこぼれたコーヒーを拭く。
 天才外科医はコーヒーをテーブルにおいた。
先ほどまで極上の味のしたそれは、今は、毒薬をブレンドされた忌わしいものにしか見えない。
「ちぇんちぇい、のまないの?」
「ああ。ちょっと胃の調子がな」
嘘である。
だが、少女は「ええ!」と飛び上がって驚いた。「ちぇんちぇい、らいじょうぶ?」
心配そうに顔を歪める少女の表情に、今度は胸がちくりと痛む。
「大丈夫だ。気にするな」
「おねつは?」
「大丈夫だ」
「れも」少女は小さな掌を、彼の額に押し付ける。「がくげーいんさんのむすこちゃんも、おなかがいたくなってちゅぐに、
おねちゅがれたって!」
「学芸員の…息子?」
「うん。あの玉木 ○ちゃんににてゆひと」
「…結婚してたのか?」
「?…うん」
「…そうか…」
 天才外科医は心で盛大にガッツポーズをしながらも、ポーカーフェイスでアイスコーヒーを飲み干した。
「あ、ちぇんちぇい」
「手作りはうまいな」
 とん。テーブルにコップを置いて、やはりポーカーフェイスで呟いた。
 アイスコーヒー。学芸員さん。科学館。
 あ。
 少女は小さく、声をあげて納得がいった。
 つまり、そういうことだったのだ。
「おかわり」
 新聞を広げながら、彼は素っ気無く言う。
「あーい」
 少女は天才外科医が飲み干したコップを持って、台所へと向かった。
「ちぇんちぇいっ…たら」
 コーヒーをコップに注ぎながら、少女は笑う。
 もう。学芸員さんが独身だったら、このアイスコーヒー、飲んでくれなかったの?
「あい、どうちょ」
 少女はコップを彼に手渡した。
「ああ」
 やはり、彼は素っ気無く答える。
 でも、だけど。
「ちぇんちぇい」
少女は、天才外科医の胸元を引っ張った。
「なんだ」
「あのね」少女は笑って、言った。「かがくかん、とおいかやきょうでおちまい。
あちたからは、おうちで新作りょうりにちょうせんするよのさ」
「…そうか」
「ちぇんちぇい、たのちみにちててね!」
「ああ」
 やはり素っ気無く答える。だけど、その表情は-----。

 
アイスコーヒー