「たらいま〜」 元気な声と共に、少女が帰宅する。大きなエコバックを小さな体で二つも持っての買い物帰りだ。 「随分と買い込んだな」 「うん」 真っ赤な顔で汗を拭きながら、バッグの中身を取り出す少女。 それを眺めながら、天才外科医はガラスのコップを二つ、戸棚からだして、麦茶を注ぐ。 「あいがと」 にっこり笑って麦茶を飲み干すと、少女は「さっき、てえびであたらしいおりょうりをおぼえたかや、きょうはごちそうなのよさ!」 「そりゃあ、豪勢だな」 「うん!夏ばてかいしょーのすぺしゃるりょうりなのよさ!」 「へえ」 少女は得意げに胸をはってから、バックの中身を披露する。 「まじゅ、ねぎれしょ、レバーでしょ」 「ああ」 「韮れしょ、うなぎれしょ、おくられしょ、 もろへいやれしょ」 「……ピノコ」 「牡蠣れしょ、にんにくれしょ、やまいもれしょ…あとすっぽん!」 「ピノコ、ちょっと待ちなさい」 「なあに?」 いつの間にか、苦虫を噛み潰したような形相の天才外科医は、静かに口を開く。 「それは、ドコの放送局の、なんという番組だった」 「え、えっとお…」少女は少しだけ考えて「てれあさの”わらっておひるのおもいっきりなび”なのよさ。 だんなちゃんがよるにげんきになれる、ふーふせいかつせいりょくりょうり…って」 「…そうか」 それだけ聞くと、天才外科医は立ち上がり、書斎に篭る。 そして自分のパソコンを起動し、ネット検索をかけた。 あった。先ほど少女が言っていた内容のものが。 『笑って!お昼の思いっきりナビ!奥様必見!旦那様が夜に元気になれる、夫婦生活性力料理』 次の日。 お昼の有名番組が急遽、放送終了してしまった。 高視聴率にも関わらずのこの突然の番組終了に、放送界には激震が走ったという。 原因は、不明……。 ■■■ 「あ、ちぇんちぇい!これは大丈夫!」 食卓についた天才外科医に、少女は慌てて言った。「こえ、ホネなしのおちゃかなだかや」 「骨なしの魚?」 少女の言葉に、天才外科医は盛大に顔を顰めた。 魚類は、生物学的には脊椎動物亜門に属する動物群のうち、両生類と有羊膜類からなる四肢動物を除外した動物を指し、 基本的に一生の間水中生活を営み、鰓呼吸を行い、鰭を用いて移動する。 また、体表は鱗で覆われ、外界の温度によって体温を変化させる変温動物であるものが多い。 その魚に骨がないとは、それは最早脊椎動物群には属さない、別の生き物になるのではないだろうか。 では、これは魚ではないのか。 もしくは、バイオテクノロジーは、骨格を有しない魚類の生産に成功したのだろうか。 「ちぇんちぇい」そんな天才外科医の思考を、少女は吹き飛ばす。「こえは、中国の工場で、工員の人たちが手作業で骨をぬいてくえた、おちゃかななのよさ」 言葉と共に差し出されたパッケージには、なるほど、そんなことが書いてある。 「…なんで、こんな魚を買ってきたんだ」 生命の姿を捻じ曲げたバイオテクノロジーではない事が判明し、安堵したが、今度は別の思考が湧き上がる。 「わざわざ中国の工場で骨を抜かなくても、普通の魚でいいだろう」 「らって…」 途端に、少女は小さく俯いた。そして呟くように口を開く。 「ようちえんのちぇんちぇいが…おちゃかなのホネぐらい、自分でとりなちゃいって…」 「はあ?」 少女の言葉を聞き、ピンとくる。 そういえば、幼稚園の連絡帳に、そんな趣旨のことが書かれていた。 「そんなこと、誰が言うんだ?」 「主任ちぇんちぇい」と、少女。「ちぇんちぇいもいちょがしいから、ホネぐらい自分で取って…て」 ああ、なるほど。 主任先生といえば、少女の通う幼稚園に今年の春、赴任してきた女性だ。 どこぞの有名な大学で、幼児教育を研究してきたとかなんとかで、小うるさい勉強熱心な保護者には、カリスマ的存在らしい。 事実、この先生が赴任してくるという噂をきいたとこかで、この幼稚園の入園倍率は、倍に跳ね上がったという話だ。 だが、理論ずくめのこの教師が、天才外科医はあまり気に食わなかった。 第一、赴任してきていきなりの主任教師とは、現場実践ができるかどうかも怪しいものだ。 「そんな事、気にするな」 天才外科医は、ご飯の盛られた茶碗を受け取り、少女に言う。 「お前は嚥下がまだ完全ではないから、魚の骨は危ないんだ。 だから、私がお前の魚の骨を取ってやるのは、ただの危険回避のための行動に過ぎない」 「うん」 「明日からは、普通の切り身を買ってきなさい」 「うん!」少女は笑って「ちぇんちぇい、あいがとう!」 「礼を言われることじゃない」 言いながら、天才外科医は、みそ汁を啜った。 まだ、自分がリハビリにあけくれて、手が思うように動かなかった頃。 リハビリの施設で、担当の指導員が毎回、魚の骨を取り除いてくれた。 それは、その指導員の仕事の一環で、担当児への介助に過ぎないことは、分かっていた。 だけど 「はい、黒男くん。お魚食べてもいいよ」 自分の為にしてくれる、その行動が、当時の自分には、少し嬉しかった。 「うーん、あじけないよのさ」 ホネなし魚を食べながら、少女は唸る。「やっぱり、ホネをとゆ苦労をあじあわうのも、焼き魚の醍醐味なんらね」 「おい、ホネを取るのは俺の役目で、ピノコは何もしていないだろ」 「ちょうでした」 へへ、と少女は笑ってみせる。「れも、練習して、ピノコがちぇんちぇいのお魚のホネをとってあげゆ!」 「期待しないで、まっているさ」 小さく笑いながら、天才外科医は、たくわんをぽりぽりと齧った。 岬の家の食卓風景