暗闇の中で遠慮がちに鳴る電子音。
 銀色のクラムシェルを手に取り、着信情報を見る。
 だが、そこには相手の名前は無く、ただ一つの単語のみ。

 非通知

 無視してもよかったが、何かが掠めたような気がした。
 予感か。
 恐らくこれは、あの生意気で小憎たらしい天才外科医から。
 だが。
「…どうした」
 クラムシェルに問いかける。
 だが、返事は無言。
 ただ遠くで、決して少なくない交通量の音と、サイレン、微かに汽笛のような
高い音域。
「すぐに行く」
 そう告げて、通話を切る。
 自分でも呆れるほどの、冷静な声だった。
 岬の家にいるはずのお嬢ちゃんに連絡をいれようと思ったが、やめた。
 少女に知られたくないから、俺に連絡をしたのだ。
 総ては、少女に心配をかけさせたくないから。

 車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。
 無言電話は、自分の身元はおろか、所在地さえ伝えない。
 だが、それでも分かるだろうという自信があったのか。
 大した自信家だ。
 隣県で、暴力団系列の頭が末期癌手術を受けたと聞いていた。
 転移は全身に及んでいたとも、それが成功したとも。
 恐らく、あの男の仕事。
  病院までメーターを見ずにぶっとばす。
 暗闇に小雨。いや、雨脚が少しずつ増してきた。
 不良な視界だったが、スピードは緩めない。
 べったりと、フラットに なるぐらいに踏み込んだアクセルペダルから、
エンジンの悲鳴が響くようだった。
 病院の敷地内に無断駐車をして、辺りを見回す。
 幹線道路沿いの総合病院。
 暗い歩道が高架橋へと伸びるのをみて、そちらへと走り出す。
 恐らく、あの黒い医者は。
 高架橋下の車道。暗闇に、見慣れた黒いセダンが見えた。
 先ほどの電話を思い出す。
 少なくない交通量、サイレン、微かに汽笛のような高い音域。
 高架橋を抜け、幹線道路に交わる手前の歩道脇。
 微かに匂う、血液臭。
 やはり、暗闇に溶け込むように座り込む男の影。
 堅く閉じた瞳、額から流れる一つの血の筋。
 左手は血に塗れたまま、脇腹を押さえていた。
 右手には、携帯電話。
 やはり血に塗れたその小さな情報端末の液晶は、死神の携帯電話の番号が表示されたまま。
「おい、しっかりしろ」
軽く頬を叩いてやると、気だるそうに瞼が開いた。
微かに唇が動き、掠れた声が小さく落ちる。
「…大丈夫だ」
 そう答えると、彼は再び瞼を閉じた。
 意識のない彼を背負う。
 かしゃん。 
 彼の握る携帯電話が、地面に落ちた。
 背中から匂う、彼の血の匂い。
 掠れた、彼の声。

『…ピノコは…』

 掠れた声で尋ねてきたその言葉に、大丈夫と答えた。
 そう答えないと、この男は。
 

 
非通知

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