気がついたら、ここに立っていた。
 それは一面の闇。
 黒一色の世界。
 初めて来たような、いや、よく知っているような場所だった。
  ふと、暗闇の中に何かが浮かび上がる。
 それは手術台。
 人工呼吸器をつけた少年が、そこに横たわっている。
「これは…酷い…」
思わず、言葉が漏れた。
まだ幼い少年だった。
手足は離断し、全身は酷い火傷を負っている。
火事…いや、爆発事故にでも巻き込まれたのだろうか。

「お待ちしておりましたわ。間先生」

名前を呼ばれて、振り返る。
そこには、見たことのない、美しい女性が立っていた。
まるで人形のような整った目鼻立ち。ただ不似合いなのは、その格好。
彼女は術衣を纏っていた。
「…俺を…?」
何故?
「その人は、間先生でしか、治せないのです」
彼女は言った。美しい声で、真っ直ぐに。
「そんな、無理だ」即答した。「…俺は…レジテンシーまでしか受けていない…研究医だ…手術など、執刀したことはない」
「でも、先生でないと無理なんです」
静かに通る声。その声を何故か、無視できない。
彼女は手を握ってきた。
滑らかで柔らかな、美しい手だった。
「間先生でないとダメなんです」彼女はもう一度言った。「その人は、8歳で爆発事故に遭いました。皮膚の3分の1が爛れ、14箇所が離断、内臓も四箇所破裂の仮死状態です」
「だったら、専門医を当たれ!俺は…俺には無理だ!」
「逃げるんですか」
握られた手は暖かく、力強い。それは彼女の意思のよう。
「この人は、この人は誰よりも貴方の助けを求めているのに、貴方は無理だと逃げるんですか!…やりもせずに、自分には無理だと、簡単に背をむけるのですか?先生は、誰よりも貴方の助けを求めているのに!」
「…誰…だって?」
言っている言葉の意味が分からずに、少し混乱した。
だが、彼女の必死さだけは伝わってくる。
彼女はこの少年を助けたい、ただ、助けたいのか。
「私は、この人に生命を救われた」
ゆるりと、彼女はその手を離した。
そして、その大きな瞳で見詰めてくる。優しくも哀しげな大地の色で。
「だから、今度は私がこの人の助けになりたい…お願いです。助けて下さい!」
思いが、痛いほど伝わってくる。
それは必死で、それは純粋で、それは懇願で。
彼女の叫ぶ声が、耳に響く。
「…すまない…」
弱弱しく、そう答えるしか、なかった。



「…影三?」
 大きく肩を揺さぶられて、ハッと目が覚めた。
そこは黒一色の世界ではなく、見慣れた大学構内にある学食。
「大丈夫か」
肩を揺さぶる大きな手を見て、その手の主を見上げた。「…エド…?」
「寝ぼけているのかい?」
笑って、ジョルジュはそっと自分が起こした日本人の頬を拭う。「怖い夢でもみたのか」
「……。」
怖い夢?…どうだったか。少なくとも楽しい夢ではなかったが。
「…重症患者を助けてくれ…と頼まれる夢だった」
「そうか」
「俺しかいなくて、それは無理だと言ったんだ」
「そうか」
「そしたら、逃げるのか、って言われた…」

"この人は、この人は誰よりも貴方の助けを求めているのに、貴方は無理だと逃げるんですか!…やりもせずに、自分には無理だと、簡単に背をむけるのですか?先生は、誰よりも貴方の助けを求めているのに"

「そうか」
優しく、ジョルジュはその黒い髪をくしゃくしゃと撫でていた。
そして、小さくはっきりと告げる。「私も、断るだろうな…臨床医を一緒に探すよ」
「…ありがとうございます…」
小さく影三は答える。
だけど、彼女の声が今でもはっきりと残っている。耳に、そして記憶に

"だから、今度は私がこの人の助けになりたい…お願いです。助けて下さい"

あの、悲痛な懇願が。






「大丈夫か、ピノコ」
優しく肩を揺さぶられ、少女は目を開いた。
目の前には、自分の顔を覗き込む、彼の顔。
「…ちぇんちぇい?」
「風邪をひくぞ」
 場所は海を見渡せるウッドデッキにあるロッキングチェアーの上。
 いつの間にか、うたたねしていたのか。
「…ちぇんちぇい…」
自分の肩の上に置かれている、大きな彼の手を掴んで、小さく呟いた。
「ごめんなちゃい…」
「ピノコ?」
「ちぇんちぇい…ごめんなちゃい…」
ぽろぽろと、少女の大地の色から、澄んだ雫が零れ落ちる。
それは、天才外科の手を温かく濡らした。
「ごめんなちゃい…」
「どうした、なにかしたのか」
そんな涙ではないことぐらい、彼だって気づいている。
だが、ただ謝罪の言葉を述べるだけで、静かに涙を流す少女に、
どうしたらいいのかが分からなかった。
「怖い夢でも、見たのか」
その言葉に、少女は首を振り「…ごめんなちゃい…」
 そう告げるしかなかった。
 そう言うしかなかった。
 先生、ごめんなさい。

 先生のお父さんを、引き止められなくて、ごめんなさい。 

 
交差する 悪夢