「さあ、いっくよ〜」
「……ああ」
 無邪気にはしゃぐ彼女は、ステアリングを握り、若干、青い顔をした天才外科医は助手席に。
 そして、黒いセダンの前後に貼り付けられている、マグネットマーク。
 燦然とまばゆいばかりに目立つのは、若葉をイメージした”初心者マーク”であった。
 ぶるるるうん…がくん。
「あれ?」
 意気込み充分な彼女の元気についてゆかず、セダンはガクガクと車体を揺らすと、エンジンを停止させた。
「おっかしいなあ」
「ピノコ」天才外科医は深くため息を吐く。「半クラッチが不十分だ」
「ええッ!!?」彼女は目を真ん丸くしてみせて「教習所では、これぐらいだったのに!」
「…クラッチには癖がつくもんなんだ」
「ええ〜!もうう」
 彼女はふくれっ面になりながらも、もう一度エンジンをかけた。

 本日、快晴。

 どういう訳か、天才外科医は私服を着せられ、愛車の助手席に座らせられていた。
 晴れたらドライブに行くからね!と彼女が豪語していたのは知っていたが、まさかそれが現実になろうとは、
 天才外科医は、自分の認識の甘さを少しだけ後悔していた。
 彼女は、いつの間にかオートマ限定解除しており、はれて、天才外科医のセダンを運転できる身になった。
 それが果たして、幸せなことであったかはこの際置いといて、とにかく、彼女は初心者が最初にぶつかる壁に、
ばっちりぶつかっていた。
 つまり、半クラッチである。
 マニュアル車には、エンジンペダル、ブレーキペダルのほかに、クラッチペダルが存在する。
 これは、ギアチェンジの際に使用されるペダルだが、運転の初動動作の際、ギアをローに入れ、
半クラッチ(クラッチペダルを半分だけ踏むこと)を保ったまま、エンジンペダルを踏んで、車を発進させる。
 そして、すぐにセカンドへギアチェンジするのだが、その時はクラッチペダルは、普通に踏んでもいいのだ。
 これが、マニュアル車を運転するための必須動作である。
 そして、彼女は、この半クラッチがうまく踏めずに苦戦している。
 先に天才外科医が述べたように、半クラッチの”半分”は車によって微妙に異なるのだ。
 5回目のエンストにため息を落としつつも、6回目に挑戦しようとする彼女の真剣な横顔を眺めつつ、
天才外科医は、自分がこの場にいる原因ともなる出来事を、反芻していた。
 気の乗らない、依頼だった。
 ただ、依頼の仲介が手塚医師であった為、ただ「診るだけ」という事で、病室を訪れたのだ。
 患者は、若い女性だった。
 成人式を今年迎える予定の彼女は、女性器の癌に侵されていた。
 まだ若いため、進行が早く、何より、病巣が他器官と癒着し、手の施しようがなかった。
 他の医者ならば。
”お願いです、助けてください”
 大きな琥珀色の瞳で、女性は見詰めてきた。
 切羽詰った表情は必死さをあらわしながらも、女性は毅然とした口調で述べたのだ。

「私には、娘がいます。だから、まだ死ぬわけにはいかないのです」

 気迫の篭った声だった。それは生への執着だったのだろうか。
 すぐ戻ると言って、岬の家をでたのだが、結果的に、手術を終えたのが、深夜をまわっていた。
 術後の様子観察をし、戻ったのは、すぐ戻ると言った一週間後だった。
「お帰り、お疲れ様」
 彼女は一週間ぶりに帰ってきた彼を、そう出迎えた。
 小言の一つも言われず、彼女は笑顔で出迎える。
 数年前は、連絡もよこさない事を、大声で喚かれたものだったが。
 そうなのだ。
 彼女は、何も言わない。こちらか言わなければ、何も聞かなかった。
 だから、だ。
 だから、依頼のない日に私服を着せられても、天才外科医は黙ってそれに従うのだ。
 せめてもの、無言の、償いだ。
「ううう、もういっちょ!」
 21回目のエンジン始動。よくも飽きずにするものだ、と天才外科医は感心する。
 慎重にクラッチペダルを浮かせつつサイドブレーキを解除し、アクセルペダルを踏みつつ……。
 ぶおんおおおん。
「わ!できた!」
「ピノコ、セカンド」
「あ、わ!わ!」
 エンジンは止まることなく発車し、彼女は二回目のギアチェンジにも成功。
 本来のエンジン音を響かせて、セダンは公道を走り出していた。
「やった!できたよ!先生!!」
「…ちゃんと前をみろ」
「はーい」
 ウキウキとステアリングを握る彼女は、達成感に満ち溢れていた。
 そんな表情を見ていると、こちらまで心が軽くなる。
 口元に小さく笑みを浮かべながら、天才外科医は煙草を咥えながら、窓の外を見た。


 さあ、何処へでかけようか。








初めてのドライブ









2010.6.24 不良保育士