ぬくもり

 帰宅したのは、もう夜明けに近い時間帯だった。
 車のライトを消して、エンジンを切る。
 暗闇に包まれた車内から水平線を見ると、東の空は青みを増してきていた。
 ドアを開けて外へ出ると、空気が氷のように肌を刺す。
 小さくついた溜め息でさえ、真っ白に変換される。
 なるべく音を立てないように、玄関の扉を開けた。
 室内はすでに真っ暗であったが、扉のすぐそばにある小さな明かりが、
天才外科医を出迎える。

 おかえりなさい。

その小さな明かりは、あの少女の笑顔のように、小さくて、温かい。
リビングのソファーの上へ、コートと診療鞄を無造作に置いて、
真っ直ぐ寝室へと向かう。
恐らく、少女が眠っているであろう寝室へ。
リボンタイを外して、ベッドを見た。
少女のいるはずのベッドは、僅かな膨らみがあるだけ。
布団を頭から被っているのか。
寒いからな。
そう思いながら、彼は靴下を脱ぎ捨てて自分のベッドへと潜る。
着替えるのも億劫なぐらいに、疲れていた。
ふと、気づく。
冷たいはずの布団が、とても温かかった。
布団を大きく捲って覗き込むと、そこには、
まるで子猫のように丸まっている少女の寝顔があった。
「…ピノコ…」
苦しくはないのだろうか。布団を頭から被って。
そう思いながら、彼は少女を抱き上げてそっと自分の枕に少女の頭をのせる。
そして自分もその枕に頭をのせ、布団を整えた。
目の前にある、少女の小さな寝顔。
「おやすみ、ピノコ」
冷たいはずだった布団が、温かい。
それだけで、総てが柔らかに解れて、満たされるようだった。









漢字の練習



 カルテの整理も一段落して、コーヒーでも飲もうと台所へ向かった時だった。
 静かだったので誰もいないと思っていた食卓に、少女が座っていたのだ。
 こちらに背を向けて、何かを書いていた。
 あまりに一生懸命だったので、一体、何をしているのか気になった。
 以前はラブレターを書いていたこともあった。…もしかしたら、もしかして。
息を詰めて、後ろから覗き込もうとした。その時、
「あえ?ちぇんちぇい」
 気配に気づかれたのか、少女が振り向いた。「きゅうけい?」
「あ、ああ」
「コーヒーいえるね」
 にっこり笑って、少女はぴょんと椅子から飛び降りた。
 後には、こっそりと盗み見るつもりだった、食卓に広げられたもの。
「…漢字の練習帳?」
それは、書店で売られている、小学生向けの漢字ドリルだった。
少女の拙い字で、そのドリルは半分ほどまで埋められている。
真面目に練習しているようだった。
「あい、ちぇんちぇい」
 ほどなくして、マグカップを手にした少女が戻ってきた。
「あ、ちらかちたまんまだった!」
マグカップを食卓に置き、少女はあわててドリルを食卓の隅に置く。
 食卓の定位置に座り、天才外科医はコーヒーを、少女は甘いココアを啜った。
「勉強してたのか」
 ちらりと、隅に置かれたドリルを見ながら、彼は言った。
「うん」少女は照れたように笑って「だって…私立をお受験すゆ子は、漢字は書けて
当たり前だし、18歳のピノコがその子よりも漢字が書けないのは、はじゅかしい
ことなのよさ!」
「…そうか」
動機が若干不純だが、まあ、勉強するのは良いことだ。
この国に居住する以上、漢字を一つでも覚えていることに、こしたことはない。
「でも。漢字っておもしよいのね!」
にっこり笑って、少女は「ちぇんちぇい、ちってる?」とノートを広げて鉛筆
を手にした。そして一つの漢字を書く。
「…『聞』く?」
「ちょ!」と、少女。「こえって、『門』に『耳』をあてて内緒話を『聞いて』た
ってことから、できた漢字なのよさ!」
えっへん。胸を張って成り立ちを得意げに話す少女に、天才外科医は
「盗み聞きが漢字になったってわけか」
「ちぇんちぇい!ロマンがないよのさ!」
「盗む聞きにロマンか?」
「じゃあ、次はこえ!」
ぷう!と膨れながらもう一つの漢字を書く。
その書かれた漢字を見て、僅かだが、彼は息を呑んだ。
「…『間』か」
「ちょ!」と、少女は言った。「『門』の隙間から『日』の光が漏れてみえたって
とこから、できた漢字なのよさ!」
「そうなのか」
「きえいな、漢字だよね、ちぇんちぇい」
 そう告げる少女の表情は、穏やかで、無邪気なもの。
 静かに、天才外科医は笑い返す。
 
 それは、静かで平和な、午後の話。