今となっては、理由は思い出せない。 だけど、泣きじゃくるその人は、俺の頭を優しく撫でて 「男の子でしょう?泣かないの!」 と力強く言ってくれた。 「…ヒック…だってぇ……」 だけど幼い俺は、その悲しみを心から追い出せず、溢れる涙を拭いながら、グズグズと言い訳を言う。 「仕方がないわね」 その人は、小さく笑いながら、自分髪の毛を纏めていた赤いリボンを抜いた。 さぁ…とその人の長い髪が風に舞い、その薄い色の金糸がキラキラと光り輝いてみえた。 その綺麗な光景に見とれていると、その人は赤いリボンを俺の胸元に優しく結んでくれた。 「これで、いいわ」その人は言った。「おばさんの勇気を、くおちゃんにあげる!」 「本当に?」 「本当よ。ほら、この赤いリボンはね、おばさんの勇気なの!これで、くおちゃんも強い男の子になれるわよ」 そして、その人は俺の幼い頬にキスをしてくれた。 嬉しさと、そして胸がドキドキと高鳴った、その甘い感情は、今でもよく覚えている。 そこは、カクテルもあるくせに、ビールも置いてある。 おつまみに、枝豆、もずくの他に、ガーリックトーストなんかもおいてある。 つまり、いわゆる、女性に大人気!お洒落居酒屋であった。 なるほど、店内は女性グループが7割を締め、おそれぞれのおしゃべりが店内で反響し、響き渡っている。よくいえば、活気があり、ぶっちゃけて言えば、うるさいこと,、このうえない。 そんなお洒落居酒屋の隅。テーブル席に少し異色な客がいた。 一人は、草臥れた背広に無精髭。少しセンスの悪いネクタイを締めたサラリーマン風の男性。 いや、彼だけであったなら、別段、異色でもなんでもない。 異色の原因は、彼の連れにあった。 「のみ放題のタダ券がなけりゃ、こねえ店だな」 異色その1。眼帯に長〜い白銀髪の白人。なのに、ばっちり流暢な日本語。 「つべこべ抜かすな、死神が」 異色その2.白と黒に分かれた長髪。顔面に縫い後。真っ黒な服装。 「まあまあ、せっかくピノコちゃんがくれたんだから」 「そうだな」異色その2が言った。「じゃあ、辰巳の失恋慰労会をはじめるか」 ぐさ。 「…間…」恨めしそうに、辰巳は思わず異色その2の本名を呼ぶ。「失恋じゃない」 「そうだな」と、異色その1。「多田先生は最初から辰巳は眼中になかったもんな」 ぐさ。 「おい、なんで貴様が辰巳の事情を知っているんだ」 「…施設入居者の終末ケアの依頼」 「貴様…人殺しは許さんぞ!」 「尊厳死だ!尊厳死。ガイドラインができたきたの、お前だって知っているだろ?」 「そんなの、政権交代でどうなるか分からないだろ!」 ぎゃあぎゃあと喚く異色の黒い医者をよそに、主役とも言える憐れな辰巳は、黙々とジョッキを煽る。 「いいんだよ!」 どん!ジョッキをテーブルに置き、辰巳が叫ぶ。「初恋は失恋に終るって、相場は決まってた!」 「初恋?」異色その2ことBJは「辰巳、その年齢で初恋だったのか?」 「そうじゃなくて」と、異色その1こと死神は「初恋の相手と再会したんだとよ、職場の異動で。んで、 このロマンチストは、勝手に燃え上がって、消火させられた、と」 「相手の結婚で、か」 「初恋は美しいままで居た方が、よかったんだよなあ…」 そして、辰巳は5杯目の中生を煽る。「そういやあ、間のはちゅこいって、誰なんらよ」 「…ろれつ、まわっていないぞ」 「おしえろよ、間ぁ!」 悪酔いの絡み酒とは、たちが悪い。いや、辰巳がここまで絡むのは珍しい。 よほどショックだったんだろうな、と推測される。 「教えろてやらんでもないが…」 ちらりと、BJは死神を見た。彼は相変わらずの無表情。 だが、分かる。 「お前は聞きたいか?キリコ」 わざと聞いてやるその口調に、死神は僅かに眉を潜めた。 「なら、話してやるよ、辰巳」 死神先生が、聞きたくない話を、な。 遡ること、20年以上前。 あと一時間で日付が変わる頃に、世帯主が帰宅した。 「…ただいま〜」 「お帰り、影三」 音を立てないように、忍び足で現れたのは、妻のみお。 ピンクのパジャマ姿でお出迎えだ。 「…黒男は、寝たのか?」 「うん、そう」みおはクスクス笑いながら「先ずは、ご飯?お風呂?面白い話?」 「はあ?」 なんだ、その三択。そう言おうとするが、妻の笑顔は、言いたくてうずうずしている顔だ。 彼女は秘密だとか、内緒だとかが隠せない性格だ。 「…面白い話」 本当は、かなりの空腹だったが、ネクタイを緩めながら彼は呟く。 三択でありながら、彼女のその表情を見れば、選択の余地などない。 夫の回答に、途端に目をキラキラと輝かせながら、彼女は「じゃあ、教えてあげる!」 「…お願いします…」 「これみて!」 鼻先に突きつけられたのは、二つ折りにされた画用紙だ。 それを受け取って、彼はその二つ折りの画用紙を開いてみた。 夕飯は…まだありつけそうにない。 中身は、画用紙いっぱいに書かれた平仮名だった。 ピンクのクレヨンで書かれたそれは、拙いながらも、それなりに読むことはできる。 「…黒男が書いたのか?」 「そうよ」 「…まだ五歳だろ…」 「あの子、アルファベッドも書けるわよ」さらりと、とんでも発言をしておきながら「と、に、か、く!早く内容を読んでみてよ!」 「……えっと…め、ありちゃんへ…?」 めありちゃんへ ぼくはめありちゃんがだいすきです ぷれぜんとつくりました あげます 「…なんだ、これは…」 「ラブレター」 「…シトロエン・メアリか」 「黒男は車に興味ないわよ」 「メアリー・フローラ・ベル」 「殺人史にも興味ないわよ!」 「メアリー・ブレア」 「時代が合わない!!」 ばん!みおはテーブルを拳で叩いて「もう!メアリって言ったら、メアリ・ジョルジュ!エディさんの奥さんに決まっているでしょう!!」 ごーん。 遠くで山のお寺の鐘が聞こえたような気がした。 「ちょっとまてッ!なんで、よりによってメアリさんなんだッ!!」 「あら、見る目があるじゃないの」 「馬鹿、お前は彼女の恐ろしさをしらないから…彼女はな、冬山で遭遇したクマをナイフ一本で倒したんだぞ」 「そんな、どこかの錬金術師じゃあるまいし」 「事実だ事実!あんな凄腕の女性…エド以外の人間に配偶者が務まるか!」 力説する彼を、まあまあと宥めてみおは「いいじゃない、初恋ぐらい」 「は…初恋ッ!!!?」 そのあまりに素敵で眩しすぎる単語を聞き、影三はよろけて床に座り込んでしまった。 「ちょっと、大丈夫?」 「いや、なんか…眩暈が…」 「しっかりしてよ」 「いや、あまりの衝撃で…」 床に座り込んで、額を拭う。いつのまにか、嫌な汗をかいていた。 いや、メアリ・ジョルジュは、確かに聡明で優しい女性だ。 だが彼女の優しさは、日本人が想像する柔らかで温かなものとは、訳が違う。 たとえて言うならば…体育会系な優しさだ(笑) 寝不足である影三に手刀を食らわし、ベッドに拘束して睡眠をとらせたり、ドアに警報機を勝手にとりつけ、夜中に研究室へ行こうものなら、鬼のような形相でかけつけ、愛の往復ビンタを食わらせる…根本には、連日徹夜で研究室に篭る影三を心配しての行動なのだが、だが、彼女の往復ビンタを思い出すと、数年たった今でも、背筋が凍りつく。 「でね、これを作ったのよ」 軽く恐ろしい思い出を脳内に廻らせていた彼の目の前に、突然、ピンク色の大きな物体が。 「…ハリセン…?」 「そう、ハリセン」と、みお。「ほら、メアリが前に、殴ると手が痛いって言ってたから、黒男と作ったの」 「……黒男と?」 「そうよ。メアリちゃんは女の子だから、ピンクにするって」 大きさは、30cmはあるだろうか、巨大ハリセンは、上方芸人がよく手にしているものと一緒だった。 「…お前は、エドを殺す気か…」 「あら、殺さないように、はりせんを作ったのよぉ」 「…そうかい…」 影三の脳内には、この巨大ハリセンを持つメアリの姿が、性格に思い描かれていた。 「あれは、お前が作ったのか!」 思い出話終了。と共に、死神が珍しく声を荒げる「あれのお陰で、俺と親父がどんな酷い目にあったかッ!余計なことをするんじゃねえ!!」 キリコの日常に突如現れた、奇妙な物体。 その日から、母は、それを嬉々として使用したのだ。 おやつを盗み食いをした、服が脱ぎっぱなし、夜に早くに寝ない……そんな時には、はりせんが飛んできたものだ。 「…親父は半泣きだったぞ」 「そんなに威力があったのか」 他人事のように、BJは呟く。「母さんが作ろうっていったからな…あまり考えてなかった」 「…あの、おばさんなら、考えそうだな…」 いつもニコニコ笑って、すこし抜けているような、よくすっころんでいる印象の人だった。 「…というわけで…辰巳?」 気がつくと、当の辰巳は酔いつぶれて、テーブルにうつ伏して眠っていた。 「それじゃあ」BJは笑って、言った。「今度は、死神先生の初恋話でも聞かせて貰おうか」 ニヤニヤ笑う天才外科医に、呆れたように死神は息を一つ落とす。 「…聞いて、楽しい話じゃねえよ」 「へえ…」 意味深に呟く彼は、上目遣いに見詰めてくる。 アルコールが入っているその赤い眼は、少し潤んで、綺麗に輝く。 まるで、綺麗な硝子球みたい。 それだけが、変わらない。そこが、変わらない、と思う。 性格は、かなり可愛くなくなったけど。 「ねえ、パパ」 幼い日。 あの小さな紅い硝子球に、魅せられたのは、いつだったか。 「ぼく、くおちゃんが大好きだよ」 特別な”大好き”という気持ちに、特別な言い方があるとは、知らなかった。 それぐらい、幼かったのだと思う。 でも、パパは分かってくれた。 その特別な気持ちを、正確に。 何故なら、パパも-----。 初恋の思い出 ※メアリはどんな人間なんだ…(苦笑) みおちゃんが、エドワードを”エディさん”と呼ぶところが可愛いと思います(どうでもいい)