「もう、俺には関わらないほうがいいですよ」 固い表情。 切羽詰ったような声色で間 影三は告げた。 「まあ、まて影三」 いつもの軽い調子でエドワード・ジョルジュは答える。 「きっと、話せば分かるだろう。彼だって、話の判らない男じゃない」 そうは言ったものの、事態は深刻であることには変わりないのは、 エドワードにも分かっていた。 それぞれの運命を変える歯車が動き出すのは、その一年後。 息子のあげる抗議の声を、影三は情けない顔で受け止める。 実は、彼は息子の怒り声がとても苦手なのだ。 「なあんでだよ、パパのばか!!」 加えて反抗期を引きずる息子は、ぽかぽかと、影三の足を両手で叩く。 「楽しみにしてたんだよ!キリちゃんに会えるの、オレ、楽しみにしてたんだ!」 「分かってるよ、黒男」 困ったように、彼は息子に目線を合わせるためにしゃがみ込む。 「でも、今回は、ちょっと会えないんだ。また、今度な」 「うそつき!パパのうそつき!!」 わあわあ喚いて、黒男は二階の自分の部屋へと飛び込んだ。 ばたん!勢いよく閉められた扉は、息子の怒りの大きさを感じさせる。 影三は、小さく溜め息をついて、階段下から息子の部屋のドアを見上げた。 息子の気持ちは、痛いほど分かる。 何度も会えるわけではない、異国の友達。 それこそ、数年に一度、会えればいい方なのに。 その数年に一度の機会が大人の都合であっさりと、捨てられたのだ。 嘘つき呼ばわりされても仕方がない。 だが、無理なのだ。 今回だけは、無理なのだ。 いや、もしかしたら、今後、一切は…。 「そっとしておきましょうよ」 優しい声に、影三は振り向いた。 「今は、そっとしておきましょう」 その優しい声で、笑顔で、彼女は影三の手をとった。「ここは寒いから、お茶をいれるわ」 「…みお…」 「大丈夫」彼女は言った。「今は黒男も悔しいだけ。 あの子は自分で気持ちの整理をつけられるわよ」 「そう…かな」 「そうよ」 力強く答える。意思のある言葉。 「そうだな」 その言葉に安堵する。君の真っ直ぐな、その言葉に。 お茶にしましょう。と歩き出す彼女の背中。 一瞬。ひやりとした感覚が過った。 それはなんなのかは、分からない。だが、それは、 総てがこの手からすり抜け、砕け散ってしまうかのような、予感。 思わず手を伸ばし、影三は、その小さな肩を自分の腕の中に閉じ込めた。 「…あなた?…」 腕の中で呟く、妻の声。愛しい君の声。 「…みお…俺は、君を愛してる。君と黒男を愛してる…」 告げる言葉と腕に篭る力。 まるで手放したくないかのように、逃したくないかのように、それは強く、強く、 彼女の華奢な身体を戒めた。 「みお…」彼は告げた。「この先、なにが起きても…それだけは、変わらないから。 絶対にそれだけは変わらないから」 苦しげな声。 今、伝えずにはいられない。伝えなくてはいけない言葉。 想い。君達への、それを懇願するように、影三は告げる。 まるで、まるで、懺悔するかのように。 「分かってる」 腕の中で、彼女はくるりとこちらを向いた。 柔らかな愛しい、優しい笑顔で彼女は言った。 「私は、あなたを疑わない。どんな事が起きても、 あなたが、また、私たちから離れても、私はあなたを疑わないから」 信じているから。 その誓いのような言葉を彼女は告げる。 何があったの、そんなことは聞かなかった。 ただ、みおも知っている。彼は、かつてある組織に所属していたことを。 そして最近、その組織が彼に接触してきていることも。 「信じてるから」 幸せそうに、彼女は微笑んだ。「大丈夫…私も、黒男も、あなたを愛してる…」 信じてるから。 やはり力強く、彼女は誓う。 それは、まるで、その後の悲劇を暗示するかのように。 悔しさで、視界が歪む。 溢れそうになる涙を手で擦り、黒男は奥歯を噛み締めた。 キリコ・ジョルジュ。 父である影三の友人、エドワード・ジョルジュの息子で、 黒男も片手で数える程度なら面識があった。 何度も会ったことがあるわけではなかった。 だが、その異国の友人のことが、お互いの心に焼きついて離れない。 それは会った回数ではなく。 それは交わした会話でななく。 お互いに触れた時に感じた情愛が、 お互いに自然で、 そして、離れていても、お互いを感じ取れる。 仲の良い友人はいる。 いつも小学校で遊んでいるお友達もいる。 だが、その異国の友人は、何故か別格。 それは繋がった心の糸であったかもしれない。 離れていても繋がっている。誰に言われたわけでもなく、 少年たちは、それを少年の本能で感じ取っていた。 そして、今回もその本能が微かに告げる。 この機会を逃したら、もう、会うことができないかも。 と。 何故、そんな予感がするかは分からない。 だがそんな予感を優先させた方が、後に後悔しないと、 これもまた根拠がないまま、黒男は確信していた。 もう、チャンスはないのかもしれない。 思えば思うほど、それは絶対に満ちてきた。 暗い部屋の中で、黒男は学習机の電気を点けた。 そして、地図帳を取り出す。 目的のページを開き、丁寧に調べ、電気を消した。 薄手のジャンパーを羽織、腕時計を着ける。 今年の入学祝に、パパに買ってもらったものだった。 そして、静かに階下へと下りて行く。 時間は夜中の2時を少し過ぎたぐらいだった。 両親が起きてこないことを祈りながら、黒男は玄関のドアを開ける。 静まり返った、夜のまち。 自分の足音さえも、ひどく大きな音に聞こえて、少年はヒヤリとした。 庭の片隅にある駐車場の脇に止めてある、自分の自転車を引っ張り出し、 黒男は闇夜へと向かって、自転車で走り出した。 キリコが窓の外を眺めようと思ったのは、偶然だった。 無理を言って父についてきた手前、クオちゃんに会えないと言われた時、 黙って、頷いた。 父の安堵したような表情を見て、その答えが正解だったと、 この聡い少年は静かに思ったのだった。 でも、それでも。 胸をちくちくと刺すような予感は、なんなのだろう。 間 黒男。 父であるエドワードの友人、間 影三の息子で、 キリコも片手で数える程度なら面識があった。 何度も会ったことがあるわけではなかった。 だが、その異国の友人のことが、お互いの心に焼きついて離れない。 それは会った回数ではなく。 それは交わした会話でななく。 お互いに触れた時に感じた情愛が、 お互いに自然で、 そして、離れていても、お互いを感じ取れる。 仲の良い友人はいる。 いつも小学校で遊んでいるお友達もいる。 だが、その異国の友人は、何故か別格。 それは繋がった心の糸であったかもしれない。 レストランで夕食を済ませ、キリコはベッドへと潜り込んだ。 父は隣の部屋で、何やら作業をしている。 忙しいのは、分かっている。 我がままだということも、分かっている。 自分にいい聞かせるように、思い込むように、キリコは何度も思い直す。 でも、それでも。 キリコは起き上がり、静かに窓辺によって、カーテンをそっとあけた。 暗闇の階下には、無数の光が散らばっている。 この光のどれかが、オトモダチの家の光なのかもしれない。 ゆっくりとその光を眺め、そして、ふと階下の地面に視線をやる。 そこには。 闇夜に沈む、ホテル脇の歩道。 頼りない街灯に照らしだされている、こちらを見上げるのは、自転車を携えた、少年。 それが誰なのか、キリコには、瞬時に分かった。 「------!」 驚きを、キリコは隠せない。 ガラス越しに、キリコは階下を必死で見下ろした。 歩道にいる少年は、じっとこちらを見上げている。 静かに、こちらを見上げている。 きゅっと、キリコは唇を噛み締めた。 そして、手早く着替え、上着を羽織、靴を履く。 「ぱぱ」キリコは小さく、隣室の父に声をかけた。「ぼく、ジュース買って来るね」 「わかったよ」 こちらを振り向かず、父は答えた。 キリコは、静かにドアを開け、外へと出る。 そして、オトモダチの待つ場所へと、駆け出した。 父の言いつけを破るのは、初めてだった。 嘘をついて、夜に抜け出すなど、考えたこともなかった。 でも、それでも。 「キリちゃん!」 駆け出してくる、その影に黒男は手を振った。 父から聞いたホテルの前に来たはいいが、どうやって呼び出そうと思っていたのだ。 でも、彼に会えるという自信はあった。 根拠はなかったが、必ず会えるという自信は。 「I haven't seen you for a long time. How are you?」 黒男の言葉に、キリコは目を丸くした。 そして、笑顔が広がる。「Yes, it is energetic!kuro-chan!」 「Yes, it is energetic.」 答えてから、照れくさそうに黒男は「えっと…I studied English. Can you speak well?」 「Yes, it neatly transmits. 」キリコも笑って「…僕も、教えてもらいました。日本語!」 今度は、黒男が目を丸くする番だった。 「すごい!キリちゃん!すごい!」 お互いに顔を見合わせて、愉快そうに笑った。 おかしくて、おかしくて、涙がでるほど笑い転げていた。 「そうだ、キリちゃん」 慌てて黒男は腕時計を見る。夜明けまで1時間。 「You show you my treasure, and come together?」 淀みの無い、まっすぐな言葉だった。 その文章だけを一生懸命練習したかのような、完璧な発音。 どうしても伝えたかった、言葉だということが、分かった。 「うん、行くよ!」 力強く、はっきりとキリコは答えた。 その返事に、黒男はニッと笑う。 「後ろに、乗って!」 子供用のマウンテンバイクの後ろを指差した。 恐る恐る、キリコは後輪の中央の軸のでっぱりに足を掛け、黒男の肩に手を掛けて、て立ち上がる。 「It goes.!」 一瞬だけ振り向いて、黒男は自転車をこぎ出した。 薄闇の町並みを、矢のように走り出す、自転車。 風は冷たかったが、それがかえって心地よかった。 「ドコに行くの?」 風音に負けないように、キリコは大声で呼びかけた。 「It is a sea. 」大声で黒男も答えた。「Do you like seas?」 「好きだよ!」 「オレも!大好き!!」 町並みがいつの間にか住宅街に入り、その立ち並ぶ黒い積み木のような影が急に消えた。 まるでそこから先が切り取られたかのように、目の前に広がるのは、 黒い平面と水平線とそこから上へと広がる、無限の空。 そこから急にスピードが増したかと思うと、 マウンテンバイクは一気に坂道を下りだす。 「うわああああああ!」 「ああああああああ!」 少年二人の悲鳴が風に響いて、尾をなした。 幸い、自動車の類にぶつかることなく駆け下りた自走式のそれは、 少年二人を乗せたまま、終点の砂浜へと突っ込んだ。 勢いあまって、砂浜に投げ出される二人。 「いってええええ」 「painful!!」 それぞれ腰やら頭やら、痛いところをさすりながら、 お互いの砂塗れの顔を見合わせて、大笑い。 辺りは、静かだった。 波は穏やかだったからか、潮騒すらも聞こえない。 水平線が赤く染まりだした。 夜と朝の境目だった。 「Sunrise」黒男は言った。「Have you seen the sunrise?」 問いに、キリコは静かに「ない」と答えた。 黒男は水平線を見た。水平線の輝きは徐々に増していく。 「海から昇る太陽が好きなんだ」 ゆっくりと、確かめるように、黒男は唱える。「初めて見た時、すごく力が湧いてきたような気がした。 きっと、朝陽はパワーがあるんだと、思うんだ」 「…うん…」 「だから、キリちゃんと見たいと思ったんだ」 視線を、黒男はオトモダチの方に向けた。 緩やかに優しく笑いながら、キリコはその視線を受け止める。 太陽がゆっくりと、確実に、水平線から昇る。 直視できないほどの光の束が、空を、海を染め上げ、色を成して行く。 「クロちゃん」 黒一色の世界から、鮮やかな色の成す世界の変わり行く様を見つめながら、 キリコは静かに呟く。 「ぼくたち、また、会えるかな。また、会いたいな…」 「…分からないよね」 黒男も静かに呟いた。「キリちゃんの国遠いし…。でも、大人になったら、会えるかな」 「クロちゃんは、将来、何になるの?」 「オレはねえ、船乗り!」 決めてあったかのように答える。「海が好きだから。色んな海を航海してみたいんだ。キリちゃんは?」 「ぼくは、ドクターかなあ」キリコは言った。「パパと一緒に、病気の人を治したりしたいんだ」 「それ、自分の家で?」 「う〜ん、わかんない。でも、パパと一緒にカナダでドクターをしたいな」 「カナダだね」黒男は言った。「じゃあ、オレ、船乗りになったら、一番最初にカナダに行くよ。 キリちゃんの病院に行くよ!」 「本当に!?必ずだよ!」 「うん、絶対に、会いに行くよ!」 子どもだと、自分だけでは会うことはできない。 それなら、自分たちが大人になったら。 それは単純で短絡的な考えだったが、少年には絶対の誓いになった。 何度も会ったわけではなかった。 だけど、お互いの心に焼きついて離れない。 忘れることの無い、異国のオトモダチ。 光さす美しい輝きの中で交わした約束。 それは、望んだ未来が必ず手に入ると、信じていた時の。 それは、自ら歩む道が幸福と確信に満ちていると、信じていた時の。 そして、少年たちは、その後会うことはなかった。 船乗りになりたいと言った少年は、 その一年後、両親を奪われ、重度の肢体不自由児となり、復讐の為だけに生き抜き、 天才と称される外科医となる。 父と同じドクターになると言った少年は、 父との反目から軍医となり、凄惨な地獄のような体験を経て 安楽死を生業とする医師となる。 光さす美しい輝きの中で交わした誓いは、果たされること無く、 少年たちは、また闇の中で出会うこととなった。 彼らにとって、その少年時代のオトモダチは、なんだったのか。 彼らにとって、あの光り輝く誓いは、なんだったのか。 それは、数奇な人生を歩む、二人の少年の物語。 Das Band der Seele