秘書から呼ばれて出た電話。 受話器からは、弱くは無い風と雨の音が低く唸るように響いている。 これは、そうとうな暴風雨なのだろう。 「大丈夫か?影三」 窓の外を眺めながら、ベン・バートは尋ねた。 外は快晴。受話器の向こうの天気とは対照的だ。 『全然、大丈夫じゃない』 早口に、疲れたような声が電話口から聞こえる。『高速道路も幹線道路が全面通行止めで身動きがとれない。 まあ、空港まで辿り着いても欠航しているだろうな』 「とりあえず、帰れるメドが立つまで、みおとそっちでのんびりしてこい」 『ああ、そうさせてもらう』彼は答えた。『台風の中でバカンスを楽しむさ』 受話器を置いて、ベンは総務の内線番号を押す。 ツーコールで、相手はすぐに出た。 「ベンだ。ドクター・間とみおは台風で足止めを食らって、まだ日本にいるらしい」 『分かりました。バート院長』 受話器を置いて、ベンは改めて窓の外を見る。 ニューヨークは実に爽やかな朝を迎えていた。 噂には聞いてはいたが、日本の嵐は風と共に雨もすごいんだな…と、日本人でありながら米国育ちの間 影三は 店内の公衆電話の受話器を置きながら、考える。 高速道路のサービスエリア。そこには、やはり台風で足止めをされたドライバーで溢れていた。 この先は通行止めなので、あと数時間で高速道路を降りるようにと、何度も館内放送がかかっている。 さて、どうしたものか。 缶コーヒーを二つ買って、影三は店内のカウンター席に戻る。 カウンターの一番端。そこでチョコレートを摘んでいる女性が「お帰り」と顔をあげた。 「ニューヨークと繋がった?」 「まあ、なんとか」と、影三。「あっちは良い天気らしいよ」 「そーなんだあ」 影三から渡された缶コーヒーを受け取り、彼女はプルトップを引いて缶に口をつける。 「……みお、俺、なんか変かな?」 「へ?何が?」 「なんか、さっきからジロジロ見られているような気がする」 居心地悪そうに、彼はちらりと背後をみやった。 確かに、若い女の子とみられるグループや、おばちゃんなどが、彼を見ながら小声で何かを話している。 「別に変じゃないわよ」と、みお。「きにしない、きにしない」 その言葉に、納得しかねない表情をしながら、彼は缶コーヒーを煽った。 いや、実は原因は分かっている。 彼はドコからどうみても日本人で違和感がないが、先ほど電話で話すのは流暢な英語。 二人の勤務先がニューヨークなのだから、当然と言えば当然なのだが、ここ島国でその外国語を話すことは、 なんとなく注目を浴びるのだ。 「さて、どうするか」 缶コーヒーを飲み終え、彼は腕組みをする。「とりあえず、高速道路を降りて…ドコかモーテルでもあれば いいんだけど…日本にはあんまりないしな」 運転し慣れない右ハンドル車左側通行を、この天気で運転していると、事故りそうな気がして怖い。 とにかく落ち着けるところをみつけるべきか。 「とにかく、行こう」 インフォーメーションコーナーの道路地図を手にして、彼はみおに声をかけた。 はーい。と彼女は返事をした。 元々は日本の循環器学会に参加するために来たのだ。 ドクターは影三の他に、あと二人いたが、彼らは早々に帰国。 影三は両親の墓参りをする為に先に日本に帰国していたみおと合流し、一日遅れで帰るはずだった。 「ごめんね、私のせいで」 車内で、済まなそうにみおが呟く。 最寄の駅がないとのことで、レンタカーを借りて合流したが、空港に向かう途中で台風が上陸。 確かに、雨風が強いとは思っていたが、まさかここまで酷くなるとは、予想外もいいところだった。 「ま、そんな事もあるさ」 明るく彼は答える。もしも合流していなかったら、彼女のことを海の向こうで心配するしかなかっただろう。 それを思えば、まだ、今の状況のほうがマシだった。 ワイパーがきかないぐらいの豪雨。 インターを降りると、そこは山の傍であまり店等も期待できない。 インター近くのビジネスホテルは、当然のように満室だった。 山を越えれば、空港があるのだが、この豪雨の中で慣れない車の山道は危険極まりない。 ドコか安全な場所で車中泊を考えていた時だった。 明るい電飾のついた大きな看板。空室ありと、そこにはホテルの文字。 だが。 「………。」 「………。」 状況は豪雨。時刻は深夜。判断の余地はないと言えるが、そうなのだが。 「…緊急避難だな」 ぽつりと呟く言葉に、みおは大きく頭を縦に振った。「そう!仕方がないよね!!」 勢いよく答える彼女に苦笑しながら、影三はホテル内へと車を移動させた。 立派な作りというよりも、非現実的な雰囲気をベースとした装飾。 そこは、いわゆる『ラブホテル』であった。 玄関脇にずらっ〜と並んだ、様様な室内の写真。 これがまた、一つ一つ趣旨の違う作りになっているのだ。なんとゴージャスというか、なんというか。 「ドレにする?」 30はある部屋数だが、残りはあと3部屋ほどだった。 「ど、れでもいいわよ!」 背を向けたまま、みおが叫ぶ。 「じゃあ、ラジウム温泉付で」 室内写真のボタンを押すと、ころりんとルームキーが出てきた。 なるほど。こういう仕組みなのか。と、影三は感心する。 「601号室だってさ」 「そ、う」 震える声。影三は彼女の手をそっと握った。 「疲れただろ?」顔を見ずに彼は優しく言った。「明日は晴れるといいな」 「そう、ね」 握られた手が熱い。全身から火を噴出しそうなほど、体温が上昇しているのが分かった。 別に緊張する必要はないのに。 ただ、休憩するだけ。それだけなのに。 室内はさほど広くなく、安いビジネスホテルの部屋のよう。 ただ、その部屋の中央にあるベッドは、やはり大きい。 それを見ただけで、みおの顔は真っ赤になってしまう。 「みお」 「はい!」 「…コート、脱いだら」 苦笑しながら彼は、風呂を入れてくるよ。と言って、バスルームへと消えた。 心臓が早鐘を打って、今にも飛び出しそうだ。 言われた通りにコートを脱いで、ハンガーにかけてクローゼットへとしまう。 ベッドに腰掛けると、その柔らかなスプリングが心地よかった。 「…疲れた…」 耳を澄ますと、お湯を溜める音が聞こえてくる。 その音をする方を見て、絶句した。 浴室の扉はガラス張りで、浴室内は丸見えだ。 「先に、入る?」 浴室から出てきた彼の言葉に、みおは高速で首を振る。「い、いい!」 「のぞかないよ」 「今日、私はいいですから!影三、どうぞ!」 「じゃあ…」彼はバスタオルを手にして「覗くなよ」 「誰が!!!」 「それとも、一緒に入る?」 「は?」 言葉が耳から入り、そして脳に到達して理解するのにたっぷり5秒。 ぼん!と音を立てて、みおの顔は噴火したかのように紅潮する。 「あ、な、な、なな!」 「何もしないよ」笑いながら彼は「ちゃんと、我慢する」 「影三!」 「冗談だ」 笑いながら、じゃあ、お先にと彼は浴室へと消えた。 しばらくすると、水音が聞こえてくる。 後ろを振り向くと、浴室が丸見えだ。 震える手で、みおはテレビをつけた。 テレビからは、賑やかな日本語が流れてくる。お笑い芸人の番組のようだったが、内容は頭に入ってこない。 ただ、自分の心臓の音がうるさいぐらいに聞こえるようだった。 ニューヨークのバート病院に就職して2年目に、間は入職してきた。 初めは、同じ日本人同士ということもあり(そして友人のキャサリンの彼氏であるベンの友人ということもあり)すぐに打ち解けることができた。初めは、それだけ、ただの友人関係だった。が、 いつからだろう。あの日本人ドクターの存在が気になり始めたのは。 職場に行くと、先ず最初に彼の存在を探すようになったのは。 彼の勤務が気になるように、なったのは。 それは恋なんじゃないの? キャサリンに指摘された時に、確かにはっきりと自覚してしまった。 ああ、そうか。私は彼が好きなんだ。と。 今回の旅行がチャンスよ!とも言われた。 チャンスとか言われても、どうしたらいいのか分からない。 ただ、心臓が飛び出そうになるのを、押さえ込みながら、みおは小さく息を吐いた。 息が苦しい。動悸が止まらない。頬が熱い。 「大丈夫か?」 「ひゃああ!」 唐突に掛けられた背後からの声に、みおは文字通り飛び上がった。 「あ」心臓がバクバク鳴って、飛び出しそうだ。「影三…あがったの?」 「ああ」 彼はタオルで頭を拭きながら「お次、どうぞ」とバスタオルを差し出す。 「わ、たしは、いいです!」 やはり、首を高速にふる彼女をみて、影三は苦笑しながら 「俺、廊下にいるから。40分ぐらいしたら、鍵開けて」 「え」 意外な科白に、みおは「いいよ!」と慌てて返すが、 影三は自分のジャケットを手にして、素早くドアへと向かう。 「影三!」 「締め出すなよ」 ばたん。 笑って、彼は部屋を出て行った。 とりあえず、エレベータで一階に降りてみる。 一階のホールのようなその空間は、ホテルにしては手狭だが、水は流れて、グランドピアノは おかれ、時々色の変わる照明は、どこか夢の世界のよう。 磨かれたタイルの隅に置かれているソファーに座り、ジャケットから煙草を取り出した。 1本咥えて、ライターで火を点ける。 紫煙を燻らせながら、ソファー脇にある、ビデオの無料貸し出し棚を眺めた。 ストレートなタイトルのアダルトビデオから、アニメ、普通のハリウッド映画まである。 サービス満点なことだ。 チャンスをモノにしろよ!…と、友人のベンに言われていた。 二人っきりで旅行なんて、最高のシチュエーションだろ!! そう力説されても、こういうものはタイミングではないだろうか、と影三は胸中で呟いた。 一目惚れだった。 同じ日本人だから、とか、そんなことは関係なかった。 その存在が、彼女の総てが愛しくて、切ない。 これが、人を愛するという事なのだろうか。 「…なかなか、苦しいなあ」 ぽつりと、呟いた。 学生時代に常に自分の傍にいた彼も、こんな気持ちだったのだろうか。 とても大事で、大切すぎて、触れるのも躊躇してしまう。 ヘタレだの、オクテだの、ベンからは散々なことを言われているが、そんなことを言われても。 だって、粉々に砕けてしまいそうだから。 俺が触れたところから、音も立てずに、霧散しそう。 そんなわけはないのに。 だけど、だけど。 大事だから、大切だから、その存在が愛おしすぎて、踏み出せない。 だけど、誰にも渡したくない。 矛盾する独占欲。 欲しいけど、奪えない。だって、傷をつけたくない。 それならばいっそ、何も気づいていない鈍感なフリをしていた方がマシかもしれない。 でも、それだけでは、もう…。 「…ガキか…俺は…」 自嘲するように、影三は呟いた。 腕時計をみると、間もなく40分は経とうとしていた。 そろそろあがった頃だろうか。 エレベーターに乗り、601号室へと向かう。 とんとんとん。 ドアを軽くノックした。 「…影三…?」 細くドアを開けて、伺うように覗く可愛い瞳。 「もう、入ってもいい?」 「うん。どうぞ」 ドアを大きく開けて、彼女は影三を部屋の中へと受け入れた。 ふわりと香る、ボディソープのいいにおい。 「寒く、なかった?あ!」 伺うように尋ねてきた彼女は、パッと影三の顔を見上げた。「煙草!吸ったでしょう!」 「…………うん」 ヤバイ。そう顔面に大きく書いた影三に、みおは詰め寄って 「ダメだよ!!煙草は禁止!!没収です!」 「あ、いや、これ買ったばかりだから!」 ジャケットのポケットに手を入れようとする彼女から、煙草を守るべく影三は慌てて後ずさるが、 マジメな看護師はそれを許さない。 「煙草はね!百害あって一利なし!」 「知ってる…知ってるけど…!こら!…まて!…おい!」 「やったあ!!」 激しい攻防戦の末に、 歓喜の声をあげて、みおは煙草を取り上げるのに成功した。 「…お前ね…」 敗者は、ぐったりと大の字になる。「夢中になると、ホント、大胆だな」 「え?」 煙草を奪うのに夢中になっていたが、改めて自分の状況をみて「ひゃああ!」と赤面した。 いつの間にか、影三を組み伏せて馬乗りの格好になっていたのだ。 「ごごっご、ごめんなさいいい!」 慌てて彼の上から飛びのくと、のそりと影三は身体を起こして、ジャケットを脱ぐ。 「騒がしいな、みおは」 非難するわけではなく、笑いながら彼は言った。「そろそろ、寝たほうがいいか。明日も早いしな」 「そ、そうだね!」 手にした煙草は力一杯握られて、無残にも折れ曲がる。 それをゴミ箱に捨てると、みおは精一杯笑ってみせた。 「私、ソファーでいいから!」 「馬鹿」と、影三。「こーゆー時は、男がソファーだ」 「でも、影三、寒がりじゃない」 ドクターに風邪をひかせたとあっては、面目が立たない。 だが、彼は「大丈夫」と笑って言う。「気にするな、アパートでもソファーで寝てるんだ」 「それじゃあ、疲れが取れないでしょう」 ごくり、とみおは唾を飲み込んだ。 「じゃあ」 声が震える。だけど、彼に風邪をひかせてはいけない。 「一緒のベッドで寝る?」 さっき、彼はわざわざ、部屋から出て行った。 入浴を恥ずかしがる私のために、彼は部屋から出てくれた。 その優しさを、疑ってはいけない。 驚いたような、彼の顔。 その瞳が2、3度瞬いて、彼はこちらを見詰める。 まるで永遠のような、沈黙。 実際は数秒であったのだろうが、随分、長い時間に思えた。 「ありがと」彼は、笑って視線をそらす。「正直、風邪をひたら不味いんだ」 「そうでしょう?」 「じゃあ、何もしないから」 「当然です!」 広いベッドの上。 その柔らかな感触に緊張しながら、みおはかけ布団に潜り込む。 同じ布団の中。同じベッドの上。 布団の端を握り締めながら、みおはふるりと震えた。 鼓動が早い。 今にも飛び出しそうなぐらいな勢いで、心臓の音が響き渡るようだ。 「みお」 「ひゃああ!」 名前を呼ばれたかと思うと、突然、布団ごと抱き竦められ、ずるずるとベッドの端から 中程まで引きずられてしまった。 「そんな、端っこだと、落ちるぞ…」 耳元に響く、彼の声。 その声に軽い眩暈がした。心臓が今にも突き破って、飛び出しそうだ。 「あ、か、か…!」 振り返ることもできない。声も震えて、言葉にならない。 布団越しに伝わる彼の戒めに、頭の中が熱くなり、思考がおいつかない。 「おやすみ」 そっ…と、彼の戒めが解かれた。 それでもその体勢から、動くことができなかった。 でも感じる、すぐ傍にある彼の体温。 思わず、きつく、きつく瞳を閉じて、息を詰める。 好きなんだ。影三のことが、好きなんだ。 指先の色が変わりそうなほど布団を、きつく、きつく、握り締める。 目を閉じているのに、眩暈がしたような気がした。 暗い視界の中で、くるくるまわる。 いつから、いつからだったのだろう。 最初は無愛想なドクターだと思った。頭の固い、いかにもお勉強だけが取り柄のような。 でも、それは、長くこの白人社会で生き抜いてきた、彼の防御の一つで。 本当は、本当は情熱的で、意志の強い、そして優しい人なのだと。 だってほら、さっきだって。 いつからだろう。あの日本人ドクターの存在が気になり始めたのは。 職場に行くと、先ず最初に彼の存在を探すようになったのは。 疲れていたのだろう。 暫くすると、彼女から安らかな寝息が聞こえてきた。 ひとつ、ふたつ…。 彼女の規則正しい寝息を、いつの間にか数えていた。 50まで数えてから、影三は体を起こす。 それでも、彼女の寝息は途切れなかった。 薄明かりのの中で眠る彼女を、彼はぼんやりと眺める。 正直いって、こんな状況で男が眠れるわけがない。 だけど。 「…蛇の生殺し…って奴か」 ため息をついて、彼は眠るみおの顔を覗き込んだ。 まるで子供みたいに、口を半開きにして眠っている。 それは、それは、気持ちよさそうな寝顔。 「……ん……」 口をもごもごさせながら、彼女は寝返りをうって、仰向けになった。 まるで安心しているかのような、寝顔。 ずっと、ずっと、その顔を眺めていたい。 「無防備過ぎるぞ…」 眠る彼女に顔を近づけた。 頬に寝息を感じるほどの距離。 その紅く、柔らかな彼女の唇の端に、影三は小さく口付けた。 そして、彼女の頬にも。 「好きだよ」囁く様に、影三は告げた。「大好きだ、みお…愛してる」 そっと彼女から離れて、彼は彼女に背を向けて布団に潜り込んだ。 とても眠れそうにはないが、体を休めておいたほうがいいだろう。 今更ながらに、頬が熱くなった。 我ながら、情けないとは思うが、今はこれが精一杯だ。 焦らずに大切にしたい、と思う。 だから、今は忍耐だな。ある意味修行だ。 そう言い聞かせながら、影三は小さくため息をついた。 彼女の寝息が途切れていることに、気づかぬまま。 嵐の夜