トムにプロポーズされたの。それ、受けちゃったわ」
明るい声の、告白。
にこにこ笑う彼女の表情に「そう」といつものように返す。「おめでとう。よかった。俺もアメリカ行きを決めたところだから」
「知ってる」彼女は言った。「だから、付き合うことにしたの」
「そうか」
それは、いつもの声、いつもの優しい眼差し。
こんな裏切りを聞いても、貴方はその笑顔を崩すことはないんだね。
「じゃあ、お幸せに」
笑って別れる、彼。
灰銀の綺麗な髪が風に揺れて、まるで天使みたい。
でも。
「ジョルジュくん」
すれ違う瞬間。彼女は俯いたまま、明るい声で言った。「こんな時でも、貴方は笑っているのね」
「おめでたいことだからね」
振り返りながら、彼は言った。「俺よりも教授のほうが、お似合いだよ」
「ねえ、ジョルジュくん…最後に、キスして」
「いいよ」
軽く答え、その言葉とおりに軽いキス。
唇に触れただけの軽い、羽根のような口付け。
それは、本当に軽くてそして少し冷たい、
まるで、銀色の死神とキスしているみたいだった。





『君とこの手のとの距離』



  学食に新しいメニューが追加されたことに、実はエドワード・ジョルジュは、
ショックといらつきが隠せない。
だって、何故、どうして、よりにもよって。
お陰で彼を探す手間も省けて、彼がちゃんと昼食を摂るようになって、
実にめでたいことばかりといえば、そうなのだが。
「……やっぱりここか、影三」
お昼時を少し外した午後。
それでも、それなりに埋まった学食のテーブルから、東洋人の彼を見つけ出すは、割りと簡単だ。
「あ、ジョルジュ先生」
そのお目当ての東洋人の向かいにの席に座る学生。
ラッキーとばかりに鞄を漁るのは、間 影三と同年齢であり友人のベン・バート。
「公衆衛生学で聞きたいことがあるんですけど」
「なんだい?」
これ幸いと、ジョルジュはその席に座る。
と、同時に「ご馳走様でした」と、影三は食べ終えた。「あ--、美味しかった」
「そりゃあ、良かった」と、ジョルジュ。「しかし、君たちは、
毎日同じメニューを食べつづけて飽きないのかい?」
「全然!」影三が、元気よく答える。「それに、このカレーライス、絶品ですよ!いいですか、この…」
満面に笑みを浮かべて、熱く語りだす彼を見ながら、密かにジョルジュは溜め息をついた。
学食の新メニュー。それは、日本で人気のカレーライスだった。
この新メニュー導入にあたり、某研究室の教授が、自分トコの院生が研究に没頭すると、
寝食を一切忘れてしまう悪癖があるので、この院生の好物を新しく加えてくれないか、
という申し出があったという噂だが、この噂は事実だったのではないか、とジョルジュは考える。
事の真相は別にして、この目の前にいる『寝食を一切忘れる悪癖のある』院生は、
大好物であるカレーライスを食べに、毎日、必ず、学食へと顔を出すようになった。
それは、めでたい。実にめでたいのだが。
 テキストを広げて質問するバートに、ジョルジュは簡単に説明をする。
 メディカルスクール3年のバートと、飛び級で入学した院生である影三は、
学年は違うが、カレーライス好きという共通点から『カレーライス同好会』なるものを結成し、
活動内容は『毎日一食カレーライス』を
掲げている。
 まあ、それも、認めよう。だが、
「で、影三」説明を終えてから、ジョルジュは「君、今日の夕飯は?」
「今ので兼用しますから」と、答える。
これだ。
毎日一食カレーライスを食べる…と言うより、彼の場合は、一日一食カレーライスだ。
まったく食べないよりはマシだが、それにしたって、あんまりだ。
「今日ぐらい、ウチに食べにきなさい」
料理が趣味のジョルジュは、静かに彼に言う。「ちゃんと、お風呂もいれるから」
「じゃあ、明後日」
「ダメだ」
「どうしでですか」
「私が寂しいからに、決まっているじゃないか」
 平然と述べる言葉に、影三は真っ赤になり、バートは大きく噴出した。
「ベン!」
「いや…はは…く、苦しい!」
腹を抱えて笑い出す友人を一喝してから、影三はキッと言い出した本人を睨みつける。
「誤解を招くような言い方は止めて下さい!」
「誤解って」それこそ心外だとばかりに、ジョルジュは「事実なんだから、仕方がないじゃないか。
学食にカレーライスが登場してから、もう半月も振られっぱなしだ」
「だからって…!」
顔を怒りで真っ赤にする彼に、トドメの一言。
「影三と居られる貴重な時間を奪うカレーライスが、正直恨めしいよ」
「ドクター・ジョルジュ!!」
「はは…!せ…先生の恋敵は…カレーライスですか…!」
膝をバンバン叩きながら笑いを堪えるバートに、
「笑い話じゃないよ」と、ジョルジュは言った。「私には、死活問題だ。寂しくて死にそうだよ」
大袈裟に言ってみせるがそれは全部本音であることも、影三は知っている。
だからこそ、二の句が告げず、ただ、ただ、ジョルジュを睨むしかない。
「分かりましたよ」
恨めしそうに、影三は言った。「夕飯はオムライス!
お風呂は『HINOKI』の入浴剤じゃないと行きませんよ!」
無茶苦茶な注文だったが、ジョルジュはそれこそ満面に笑みを浮かべて、その腕を広げた。
「当然だよ、影三!愛してる!!」
がばあ!と盛大に抱きつくジョルジュに「離せ!!」と暴れる影三。
それを、毎度の事ながら眺めるバートは、この遣り取りには、もう慣れっこだ。
「本当に、仲がいいよなあ…」
食後のコーヒーに口をつけた時だった。
歩いて来た女性が、歩みを止めた。丁度、バートたちのテーブルの横で、だ。
不思議そうに、バートはその女性を見て、息をのんだ。
大学内では見かけない顔だった。
豊かな金髪の巻き毛に、真っ赤な唇。
切れ長な瞳に、長い睫。その整った顔立ちは、白衣を着ていなければ、モデルかなにかと間違えそう。
それは、場違いなほどに美人と言える、女性だった。
 彼女は、ジョルジュと影三のじゃれ合いを静かに見詰めていた。
 そしてゆっくりと、その美しい深紅の唇を開く。
「ジョルジュくん!」
凛と響く、まるでソプラノ歌手のような発声だった。
その場に居合わせた人間が、思わず惹きつけられるような。
名前を呼ばれた人物は、動きを止めた。
「…エララ…さん?」
ぽかんと見詰めるジョルジュは、あの時と変わらないな…と、彼女は思う。
ただ、あの時よりも、精悍になった。
「久しぶり、会いたかった…」
美しく彼女は笑ってみせた。
優雅な足取りで、彼女はジョルジュに近づく。
そして、軽く、羽根のような口付けを。
それは一瞬の出来事であったが、その唇にあの時のようにキスをした。
「…会いたかったわ…」
もう一度告げる、言葉。
「え、あ、久しぶり」
慌てて片手で、ジョルジュは唇を拭い、そう答えた。
もう片手で腕に抱く彼は、複雑な表情で、彼と彼女を見上げている。
 拭った手の甲に、彼女の深紅のルージュがこびりついていた。



「…あの…影三?」
オムライスを黙々と食べる彼に、ジョルジュはおそる、おそる「美味しいかい?」
「ええ」
ぶっきらぼうに、答える。
「その…お風呂は?」
「いい湯加減でしたよ」
「それは、良かった」
 し---ん。
 なんとも居心地の悪い沈黙だった。
 ただでさえ口数の少ない彼が、いつにも増して寡黙なのだ。
「ごちそうさまでした」
静かに、影三はスプーンを置いた。「じゃあ、俺、行きますから」
「待って」
 手を伸ばし、行こうとする彼の腕を掴んだ。
 彼は歩みを止め、そして振り返る。
 それは、静かに怒っているような、哀しいような、無表情。
 言葉に詰まった。
 胸が、痛んだ。
「影三」腕を引き寄せて、彼を抱き寄せる。「…頼む、行かないでほしい…」
勝手な頼み事だ。だが、君にそんな顔をさせてしまった事が、
ジョルジュの中で、重く圧し掛かる。
行かないで。お願いだから、そんな顔で行かないで。
「ドクター・キャメロンは」腕の中で影三が言った。「あなたが好きなんでしょう?
…美人じゃないですか。エドだって、好きで付き合っていたのでしょう?」
静かな声だった。
まるで冷静を装い、自分を氷付けにしたかのような、冷たい声色。
「こんな薄情な俺よりも、彼女の方が」
「私が今、愛しているのは、君だけだ」
氷つかないで。
お願いだから、一人で消えてしまわないで。
「私を愛さなくてもいいから…影三、そんなことを言わないでくれ…」
そんな言葉、君の口から聞きたくはない。
愛されなくてもいい。
でも、誤解だけはしないで。
「愛してる、影三」
成就なんて望んでない。ただ、君が好きなだけ。
それ以外に、望むものなんて一つもないから。




 時期はずれの新任ドクター・エララ・キャメロンとドクター・ジョルジュと間 影三の三角関係は、
その日の内に学部内にて広がってしまっていた。
まあ、それはそうだろう。
ジョルジュと影三のじゃれ合いは、結構有名だったのに加え、キャメロンのあの容姿と、あの行動。
慌ただしくも、勉強、実習、抗議の繰り返しな大学生活において、それはちょとした
楽しいスキャンダルネタでもあった。
「だ-か-ら、俺とドクター・ジョルジュは単なる友人関係!」
本日にして、実に数十回目ともなる説明を、影三は繰り返す。「それ以上でも以下でもない!」
「え〜本当に?」
「本当のこと教えてよ」
メディカルの3年生、つまり影三と同年齢である彼女達が、何の用事かと思えば、
そんなことをわざわざ聞きにきたのだった。
「でも、ドクター・ジョルジュとハザマくんって、お似合いよね-」
「そうそう」
「似合う似合わないで、恋人関係にするな!」
 最近、女性の間で男同士の恋愛をテーマにした漫画が流行っているらしい。
 まるでそれのようだ、というのが、彼女達の弁。
「俺はゲイじゃない!」
何が哀しくて、こんな弁解をしなくてはならないのか。
なんだ、つまんない。と、彼女達は呟きつつ
「ドクター・キャメロンは本気みたいだけど、ハザマくん、本当にいいの?」
「そんなの、エドが決めることだろ!」
…言ってしまってから「あ」と気づく。
彼女たちを見ると、ニヤニヤと嬉しそうな笑み。
「聞いた?『エド』だって!」
「やだ〜!ハザマくんったら、親密!」
「いや、これは…それじゃあ!」
 弁解不可能。しどろもどろになりながら、影三は脱兎の如くに逃げ出した。
 自分の迂闊さに腹が立つ。
 学内で、ジョルジュは教授の助手、自分は院生であるから、名前で呼ぶことはない。
 呼ぶのは大学を離れた時だけ。
 大分ダッシュしてきたので、気がつくと建物の端っこまで来ていた。
 大きく息をついて、影三は窓から階下を見下ろした。
 優しい風が、黒髪を静かに揺らす。
 階下は大学のメインストリートが長く通っている。
たくさんの白衣を着た学生が、そのストリートを思い思いに歩いていた。
大学院に進む前。自分もあの中の一人で、慌しく走り回っていた。
勉強、講義、実習…本当は臨床医になるつもりだった。その方が、待遇もいいからだ。
だが身寄りのいない影三は、金銭的事情から研究医の道を選ぶ。
結果的には、研究医の方が生にあっていたのだが、それまでのメディカル課程の後半4年間は、
通常の講義に加えて、博士研究を行い、その後に臨床実習を受ける。それこそ怒涛の4年間だった。
こんな風に、のんびり風景を眺める余裕もなかった。
そして、ふと、気づいてしまう。
階下を歩む二つの影。
それは、紛れもなく、間違えることもなく
「…エドワード…」
それは、先程まで仲を疑われていた、ジョルジュだった。
そしてその隣には、やはり噂の中心人物である、キャメロンが。
 それは、嫌味なぐらいに絵になる光景だった。
 彼女がエドに好意があることは、誰が見ても一目瞭然だった。
 それなのに、それなのに。
「…寄り位、もどせばいいのに…」
小さく影三は呟いた。
胸が痛む。小さいけど、鋭く、辛く。
だがそれは恋愛感情ではない。
ただの独占欲。それだけだ。
 ジョルジュに甘えているという自覚はあった。
 あの時に、彼に告白されてから、自分はエドに甘えているだけ。
 なんて薄情な。
 なんて卑怯な。
 だから、今のうちに、貴方は、あなたを愛してくれる人と共に行けばいいのに、と思う。
 貴方を愛してくれる人と、共に。
「…俺は、貴方が好きなんですよ…エドワード…」
本人に告げることの出来ない、告白。
愛せない。愛することはできない。
でも貴方のことは、好きなんです。
ただ、俺は貴方が好きなんです。

 道行く学生は、見慣れない白衣の美人に振り返る。
 そんな視線を物ともせずに、キャメロンは、歩調を合わせるつもりなく歩むジョルジュの横を
足早に歩いていた。
「ジョルジュくん…ちょっと待ってよ…!」
呼びかけに、ちらりと振り向いて、ジョルジュは歩調を緩めた。
「どうしてコッチに来たんです」
顔をみずに、ジョルジュは尋ねる。「それに、キャメロン…て」
「別れたの。トムとは」
軽く答えた。そして明るく言う。「やっぱり、無理だったのよねえ。盛大にした式が勿体無かったな」
 彼女と別れてすぐに、ジョルジュは渡米した。
 風の噂で、研究室の教授と結婚したと聞いたのだが。
「…そうですか…」
「私ね、やっぱりジョルジュくんが忘れられなかったの」
 やはり明るい口調で、彼女は言った。
 そして、その切れ長な瞳で彼を見詰める。
 腕をとり、強引にその歩みを止めた。
「私、ジョルジュくんが好き」
 真っ直ぐに見詰めながら、彼女は告げた。
「…どうしてかしらね。なんで、ジョルジュくんのことが忘れられなかったのか、
我ながら、不思議だわ」
「酷い、言い草だな」
 苦笑しながら、ジョルジュは言った。そして、困ったような表情をする。
 そんな表情は見たことがなかった。
 そう、いつだって彼は、何を言われても、優しく笑っている人だった。
「ねえ、ジョルジュくん…キスして」
 あの時のように囁いた。
 風が、あの時のように、彼の灰銀の髪を揺らす…。




 送られてきた工科大学の論文を読み終えて、影三は小さく息をついた。
 彼の研究内容は完全埋込型補助人工心臓システムだ。
 だが、心臓機能を代行するためには、何もシステム全体を埋め込む必要はないという意見もあり、
何より、埋め込み型は体格、年齢によって、リスクが高まる。
理想は自己発電型ではあるが、発電源となるシステムが未だ見つけられない。
「熱心なのね」
この研究室内では聞いたことのない声が、響いた。
その声の主を見て、影三は僅かに眉を潜める。
「ドクター・キャメロン」
「ハザマくん」彼女は優雅に言った。「コーヒーでも飲まない?」
 有無を言わせぬ物言い。
「いいですよ」影三は立ち上がり「丁度、休憩したかったところですから」
 もう夜も更け、もうすぐ深夜と呼ばれる時間だった。
 誰もいない自動販売機のコーナーに行き、紙コップコーヒーを二人はすする。
 何を話せば良いのか。正直、影三には分からない。
「カナダでのジョルジュくんはね、とても優しい人だったわ」
唐突に、彼女は告げた。
僅かに彼の指が強張る。
それを見たのか、気づいたのか、彼女は小さく笑ってみせた。
「知ってるわよねえ、ハザマくんなら」
紙コップに口をつける。本当に優雅な仕草だと、思う。
「でも、優しいだけの人だったのよ」
彼女は笑った。そして、静かに口を開く。「彼はね、来る者拒まずの人だったから、誰にでも優しいの。
いつでも笑っていた…こちらから求めれば、彼はなんでもしてくれた。でも、彼から求めることなんて、
全然、なかった。一つも、なかったわ…いつも静かに受け入れるだけ。静かに、静かに…よ」
「…エ…ドクター・ジョルジュがですか?」
信じられない。思わず声にでそうになる。
だって、エドはいつでも情熱的で、求めることはないけど、だけど彼は、時には強引で。
「変わったわ、彼」
静かにこちらを向くキャメロンに、どきりとする。
それは、哀しそうな、寂しそうな…揺れる色。
「告白すれば、誰とでもつきあってくれた…こちらから別れを切り出さなければ、彼は一生付き合って
くれたのかもしれない。…でも、彼の気持ちは分からない…彼はあまり本心をだす人じゃなかったから」
「……。」
カナダでの彼のことは知らない。
でも、自分の知っているエドは、いつでも、いつでも愛をその口から語っている。
愛してる、と。
「ハザマくんが、彼を変えたのねえ」
ちょっと妬けるわね。
小さく呟く彼女の言葉は、恐らく本音。
ああ、この人は。
影三は苦しくなる。本当に、本当にエドのことが好きなんだ、と。
胸が熱くなる。
ああ、でも、エドは、そして俺は。
「…俺は…」言葉が震える。でも、彼女に言わなければならい、言葉。「…俺も、エドが好きです。
…恋愛感情ではないですが、俺は…エドを尊敬しています」
「そう、よかった」
美しく彼女は笑ってみせた。
その整った綺麗な笑顔に似合わない、一筋の涙が頬を伝う。
それでも彼女は、影三に笑いかけたままだった。







「ねえ、ジョルジュくん…キスして」
 あの時のように囁いた。
 風が、あの時のように、彼の灰銀の髪を揺らす…。
「それは、できない。…済まない…」
顔を逸らし、ジョルジュは告げた。
それは見たことのない、苦しそうな横顔。
「そう」
キャメロンは笑って「嘘よ。今、ジョルジュくんが好きなのは、ハザマくんなのよね」
「…エララさん…」
「しょうがないわよねえ」
おどける彼女を見詰め、そしてジョルジュは口を開く。
「エララさん、俺は…俺は、影三が好きなんです。愛してます。…多分、俺は初めて、人を愛したんだと
思います…」
「そう」残酷で、正直な告白だった。「そうだと思ってた。あなたは優しかったけど…私にも優しく
してくれたけど…私が好きだったわけじゃないのよね」
「…すみません…」
「しょうがないわよね」
 おどけたように、彼女は告げた。
 あなたを忘れられなかった。
 あなたを忘れられなかったのだけど、今のあなたを私は知らない。

 こんなにも情熱的で、強引なあなたのことは。
 こんなにも一人の人間を愛している、あなたのことは。