「…風呂に入りたい…」 その言葉に、ベン・バードはため息を吐いて、同情めいた視線を送る。 「一週間も我慢できないのか」 「頭がかゆいんだ!」 ぼりぼりと頭をかきながら、間 影三は悲痛な声をあげる。「風呂!風呂に俺は入りたい!」 「どうやって」 ベンはその言葉を呟いた友人の乗る車椅子を、コンコンと叩く「右足の捻挫に左手首も。もう少し安静にしてるんだな」 「…風呂に入りたい…」繰り返し呟く、友人。「これ以上一日だって、我慢できるか!!」 「じゃあ、入るか?」提案したのは、エドワード・ジョルジュ。「防水処理して全介助なら大丈夫だろう」 「「全介助?」」 その提案に、学生二人は、言葉に詰まる。 バスタイム〜階段落ち 事の起こりは、またもや、医学大学院の研究室引き篭もり東洋人が、貫徹新記録をだした朝に起こった。 「人が学会に行っている間に、君という人は!!」 研究室で文章の見直しを行っていた彼を、有無を言わさずに小脇に抱えてジョルジュは大股で廊下を進む。 「離してください!!」 小柄とはいえ、男に抱えられた影三は、ジタバタと暴れるが、貫徹が祟ってか、力がどうにも入らない。 「ほら、抵抗する体力も無い」 「せめて、あと少しで終るんですよ!」 「その『あと少し』は何日だ!」と、ジョルジュ。「2日?3日?その間に、また脱水起こして入院したいのか!?」 「とにかく、おろしてください!!」 滅茶苦茶に暴れて、ジョルジュが思わず手を離す。 「こら!影三!」 「今日だけ!今日だけ見逃してください!」 手から逃れることに成功した影三は、捕まることを避けるために廊下を走り出す。 その後ろを、ジョルジュはバタバタと追いかけた。 「とにかく走るんじゃない!」追いかけながらジョルジュは「本当に倒れるぞ!」 「じゃあ、ドクターが止まって下さい!」 「君が止まったら、止まる!」 「いやです!」 コントのような会話を交わしながらも、ジョルジュは気が気じゃない。 とにかく、前方を走る彼をいかにして制止させるかを考えていた。 だが、影三はいかに追いかけてくるカナダ人を、どうやってまこうかを考えていた。 彼の言うことは至極マトモで、常識だ。だけど、やっと自分の思い描いていた理論を見つけ出すことができたのだ。 とにかくそれを紙に書き出して、考察をしたかった。試作をしたかった。それがあともう少しで形になる。 眠る時間などなくてもいい、時間がもったいない。 彼が、自分を本気で心配しているのは、分かってはいたが。 廊下を右折し、大きな階段に差し掛かる。 その走っていた勢いのまま、影三は階段を駆け下りようとしたのだ。が、階下から大きな荷物を抱えた女性が階段をゆっくりと昇ってきた。 「…あっ…!」 小柄なその女性は、走ってきた影三に気づき、驚いて避けようと身を後ろへと引く。 退いた彼女の片足は、足場を失い大きく体が傾く。 「危ない!」 咄嗟に影三は彼女の華奢な腕を掴んだ。だが体勢が悪く、彼女の落下運動に影三も巻き込まれる。 階段を落ちる事は免れないな。と、天才と呼ばれる頭脳は冷静に判断した。 二人は、彼女の抱えた荷物ごと階段の踊り場に転げ落ちた。 「影三!」 名前を呼びながら、ジョルジュは急いで階段を駆け下りる。「大丈夫か」 「…なんとか…」 起き上がりながら、影三は腕の中に抱きしめる形になった彼女の顔を覗き込む。 階段を落下しながらも、なんとか彼女を庇うことに成功した筈だが。 「大丈夫ですか?ドコか怪我は…」 「だ、大丈夫です」 真っ赤な顔で、彼女は顔をあげた。そして影三の顔を見た途端「きゃあああ!」と悲鳴をあげる。 「は、ハザマさん!?本物ですか!!?」 「…偽者でもいるんですか?」 「あ、ありがとうござました!」彼女はぴょこんと頭を下げて「私、一年のメルリアン・シュガーです!メルって呼んで下さい!」 「あ、はい」と、影三。「俺は、間 影三です。本当に俺のせいで……」 「いえ!大丈夫です!丈夫なのが取り柄ですから!」 「シュガーくん」 踊り場に散らかった荷物を集めながら、ジョルジュが口を挟む。「このガラス実験器具割れてしまったけど、どうするんだい」 「あ!たた大変!間さん!失礼します!」 荷物を集めてまた抱えると、メルはまた階段を駆け上っていってしまった。 「…大丈夫…かな?」 その後姿をみながら呟く影三の左手を、ジョルジュは突然掴んだ。 「怪我をしているじゃないか!」 「え?」 言われて初めて気がついた。割れたガラスで切ったのだろうか、手首からダラダラ血が流れ出している。 そのうえ、切り傷以外の痛みも感じる。考えたくはないが、捻挫もしただろうか。 「とにかく、止血だ」 険しい表情でジョルジュは立ち上がる。つられて影三も立ち上がろうとした。が 「痛っ!」 右足を床につけようとすると、足首に痛みが走る。 すかさず、ジョルジュが足首に触れて確かめる。「……折れてない。こっちも捻挫だな」 見る間に足首が赤く腫れ上がってきた。これでは歩くのは無理だ。 「…まったく、ほら」 「す、みません」 日本人院生を背負い、ジョルジュは立ち上がる。 影三にしてみれば、死ぬほど恥ずかしかったが、自業自得だ。仕方がない。 そのまま附属の病院へ行き、念のためにレントゲンを撮ったが、他は幸いな事に異常なしだった。 忙しいから自分でしてくれ。と病院の整形外科医は処置室を出て行った。 「すみません、先生」 「いえ、こちらこそ、ありがとう」 看護師が済まなそうに言うのを、ジョルジュはにこやかに礼を言う。 とりあえず、影三の左手の傷を縫合する。手首は腫れあがって痛そうだ。 足首の処置も終わり、今、院生は点滴を受けながらベッドで熟睡している。 ほら、みたことか。 彼の寝顔を見ながら、ジョルジュは小さく悪態をつく。ちゃんと休憩をとらないから、こんな事になるんだ。 ネクタイを緩めて、椅子をベッド脇へと近づけた。 学会が終わって、直接大学院に来たのだ。そのまま帰ってもよかったのだが。 「…だから、心配なんだ…」 そっ…と彼の黒い髪を撫でる。 女の子を庇わなくたって、よかったのに。と酷いことを考える。 君が怪我をするくらいなら。 こん、こん、こん。 遠慮がちにノックする音。 返事をすると、メルと名乗った女性が現れた。 ざらり。ジョルジュの深い部分で嫌な音がする。 「あの、間さん、大丈夫ですか?」 大きな緑色の瞳で見上げながら、尋ねてくる。柔らかそうで豊かな金色の巻き毛が可愛いらしいと思う。 「ああ。捻挫と睡眠不足だけだからね」 「あの」メルは言った。「私のせいだし…私、間さんに付き添ってもいいですか!」 「点滴だけだから、時間がかかるよ」 「いいです!待ってます!」 「駄目だ」ジョルジュは言った。「あと2本残ってる。深夜になるよ。帰りなさい」 「……はい…」 メルは俯いてから、失礼しました。と退室した。 …嘘を吐いた。 本当は今しているこの点滴は3本目。最後のものだ。 明るい緑色の大きな瞳。柔らかそうで豊かな金色の巻き毛の可愛いらしい学生だと思う。 ざらり。 また嫌な音が、ジョルジュの深い部分から聞こえてくる。 ********** 点滴のおかげか、影三は次の日から元気に研究室へと顔をみせた。 だが、松葉杖がうまく扱えないのだということで、暫くは車椅子で過ごすこととなる。 車椅子で研究室にいるのは狭いことこのうえないので、影三はしばらくは学食で大半を過ごす事にした。 丁度、論文の見直し段階だったのも幸いして。 「今日は、一人なのか?」 自分にかけられた声に、影三は顔をあげる「ベンか、久しぶりだな」 差し入れだ、と紙コップコーヒーをベンは差し出してきた。 それを受け取り、影三は一口それを飲む。 ベンは学年は違うが、影三とは同年齢の学生だ。「聞いたぞ」とベンは楽しそうに「お前、女の子を庇って怪我をしたって?」 「…まあな…」 「すげえ、そんな映画みたいな出会い、俺もしてみたいよ!」 「あのなあ」 目を輝かせる友人に、影三は心底呆れたような口調で「単なる事故だ。それだけだ」 「でも、その子は日参してくるんだろ?」 「…まあなあ…」と、影三。「課題を持参で、な」 「あー」 一言言って、ベンはコーヒーを飲んだ。つまり魅力的なのは、その課題の答えを難なく導き出せる頭の方なのか。 「…風呂に入りたい…」 唐突に影三が呟いた。 その言葉に、ベンはため息を吐いて、同情めいた視線を送る。 「一週間も我慢できないのか」 「頭がかゆいんだ!」 ぼりぼりと頭をかきながら、影三は悲痛な声をあげる。「風呂!風呂に俺は入りたい!」 「どうやって」 ベンはその言葉を呟いた友人の乗る車椅子を、コンコンと叩く「右足の捻挫に左手首も。もう少し安静にしてるんだな」 「…風呂に入りたい…」繰り返し呟く、友人。「これ以上一日だって、我慢できるか!!」 「じゃあ、入るか?」 いつの間にいたのか、提案したのは、ジョルジュ。「防水処理して全介助なら大丈夫だろう」 「「全介助?」」 その提案に、学生二人は、言葉に詰まる。 バスタブに渡せる長い板を一枚調達してきた。 そして、彼の右足と左手に巻く防水シートを数枚。 「…楽しそうですね…」 恨めしそうな表情で見詰める彼は、自分の失言から招いたこの事態を後悔しているのか。 「まあ、楽しいよ」 素直な感想を、ジョルジュは言った。「影三、バブルバスは?いれるかい?」 「泡風呂は好きじゃない…」 そこまで言ってから、彼はハッとして、慌てて「入れて下さい!たっぷりと!!」 「たっぷりと入れても、べたつくだけだよ」 蛇口を捻り、勢いよくお湯を出す。その勢いよく落ちるお湯の中に、バブルバスを入れた。 白い泡が立ち上り、バスタブの中は泡で埋め尽くされる。 「できたよ、影三」 振り返ると、彼は小さく「ありがとうございます」と言った。 右足を防水シーツで包み、ほどけないように、更に上からロープで縛りあげる。 左手も丁寧に防水シーツで丁寧に包み込んだ。 そして、彼の衣服を脱がそうとすると、真っ赤になって、彼は慌てた。 「いい…自分でしますから!」 「できるかい?」 「Tシャツだからできますよ!」 「そう」 彼の衣服から手を放し、ジョルジュも自分の衣服を脱ぎ始めた。 「…な…エド!!」半ばパニック状態。影三は「なななんで、貴方まで脱ぐんですか!」 「なんでって」それこそ意外そうに「服を着て入浴介助をしたら、風邪をひくじゃないか」 「海パンぐらい履いてくださいよ!」 「ドコにしまったか忘れたよ」 全身茹でたように真っ赤になった、彼の腰にタオルをのせて、ジョルジュはひょいと抱き上げた。 そして、バスタブの底で滑らないように、注意深く泡の中へと足を踏み入れた。 バスタブに渡してある板に、彼の右足をのせると、ジョルジュは背後から抱きしめたまま、ゆっくりと泡の中へと座り込む。 自分の膝の上に彼の腰をのせて。 「気分はどうだい?」 身体を硬直させている彼に、小さくジョルジュは尋ねた。「…やっぱり、嫌だったかな」 「………。」 彼は俯いたまま、答えない。 答えなかったが、小さなため息を吐いて、フッ…と彼の身体から力が抜けた。 そして、ジョルジュの胸に体重を預けてくる。 「…気持ち…いいです…」 穏やかに答える声に、安心した。 軽くもたれかかる彼の体重が、とても心地いい。 今、自分の腕の中で身を委ねる彼がとても愛しかった。 まるで恋人同士みたい。 でも、違う。自分は彼を愛しているけど、けど、彼は。 「電話…」ぽつりと、ジョルジュは呟いた。「…嘘だったんだね、本当は…」 学会先でかけた電話。 ちゃんと家に帰るように告げ、彼は、ちゃんと家に戻っていると返してくれた。 「信じてたのに」 独り言のような言葉に、彼は小さく俯いた。 「ごめんなさい」 まるで、親に叱られた子どものように、彼は答えた。 その姿は、本当に子供のようだ。 「分かれば、いいさ」 俯く彼の頭を撫でて、頬に軽く口付ける。 彼は、少しだけ身じろぎしたが、それでも嫌がる気配はなかった。 その柔らかな頬に、自分の頬を摺り寄せる。 「メル…って学生とは、その後どうなんだ?」 「え?」 唐突な言葉に、影三は驚いて体を起こした。 いや、言葉よりもその声色に。 「…どうなんだ?…」 「別に、なにもないですよ」 即答する。いや、それは事実なのだが、何故、彼がそんな声をだすのかが分からない。 どんな表情をしているのか酷く不安になったが、伺うことはできない。 「…そうか…」 その、声。 「エド?」 答える変わりに、その首筋に、肩に、ジョルジュは小さな口付けを繰り返してきた。 まるで確かめるかのように、何度でも。 彼は細い息を吐きながらも、その口付けを受け入れる。 肩から肩甲骨、背中、いつのまにか、夢中で彼の肌を追う。 「…エド…」 名前を呼ばれ、彼の肌から唇を離した。 軽く繰り返すだけのキスは、その彼の肌には何も残らない。 彼の綺麗な肌は、綺麗まま。 「…エド…熱い…」 息も絶え絶えな、朦朧とした声。 上気した頬は、風呂のためなのか、それとも、もしかして。 「もう、あがる?」 「…はい…」 シャワーに手を伸ばし、彼の身体についた泡を洗い流す。 そして、抱き上げて、バスルームから出た。 すぐに大きめなバスタオルを彼にかけてやり、ソファーの上に横たえると、彼の濡れた肌を丁寧に拭ってやる。 「…綺麗な…肌ですね…白い…」 瞳を細めて、彼は呟いた。 顔を覗き込むと、彼は灰銀の前髪に触れる。 「…濡れてる…」 前髪が含んでいた雫が、彼の指に伝って濡らす。 その仕草が、子供のようで可愛いらしくみえる。 「…影三…?」 細めていた瞳が、静かに閉じた。 「…エド…」呂律の回らない声。それでも彼ははっきりと「…俺は…ミス・シュガーとは別に何も……本当ですよ…」 「そうか」 掠れた声で答える。そう、君がそう言うのなら。 返事に安心したのか、後は、静かな寝息が口から漏れるだけ。 「…まあ、よかった」 よかった。君が満足してくれて。 ソファーで眠る彼を見詰め、自分が着替えるのを忘れてしまい、ジョルジュは風邪をひきましたとさ。 それは、また別のお話で (おわる)