彼はこの大学の研究室でも有名人であった。 それは、東洋人でありながら、未曾有の天才と呼ばれる程の才能とセンスがあった。 そんな彼、間 影三は、研究に夢中になると寝食を忘れて没頭する癖があった。 確かに、研究者ともなると、三日三晩研究室に篭りっきりというのも珍しくはないが、彼の場合、一週間は当たり前。 一度など、半月以上飲まず食わずで、脱水症状一歩手前になった時もあった。 「だから、IVHで凌いでいたから大丈夫ですよ!」 廊下を引きずられながら、影三は拗ねたように抗議した。 彼を引きずっているエドワード・ジョルジュは「影三」と歩みを止めずに質問する。 「君の専門は?」 「…循環器…です」 「心臓専門の人間が、自分の心臓に負荷をかけてどうする!!」 滅多に怒鳴ることのないジョルジュの言葉に、 「すみません…」 小さく影三は答えた。 『部屋とYシャツとカレーライス』 研究室の教授ですら、この頑固な東洋人を宥めることができない。 彼に言うことを聞かせることができる人間は、この大学構内では唯一人。 それを知っていて、教授は、共同研究で顔見知りである別の研究室のジョルジュに頼んだのだ。 まったく。日本人は勤勉すぎる。 溜め息混じりに零す教授の言葉を、ジョルジュは思い出す。 「とりあえず、食べて、寝て…他にしたいことはあるかい?」 「…風呂…」 「は?」 彼の言葉に、ジョルジュはぴたりと歩みを止めた。「風呂?」 「風呂」真剣な表情で影三は「先ず、風呂に入りたいです」 「……。」 くるり。ジョルジュは振り返り、頭一つ小さい黒い頭に、鼻をよせた。 途端に東洋人に顎を掴まれて、ジョルジュは上向きに持ち上げられる。 「な、に、を、するんですか!」 「何って」 下から顎を持ち上げる手を掴み、ジョルジュは悪びれもせずに 「別に臭わないよ。気にしすぎだ」 「俺は気になるんです!」 睨みつける彼に、わかった、わかったと告げ、ジョルジュは「じゃあ」と続けた。 「ご飯のリクエストは?ニクジャガ?ミソシル?」 「…カレーライス」 「ああ、日本のカレーね」と、ジョルジュ。「分かった。先ず、マーケットに行ってから、私のアパート、そして就寝」 「食べたら、お暇しますから!」 ぶんぶんぶん。蜂が飛びだしそうな勢いで、影三は頭を左右に振った。 「駄目だ」 彼の言葉を、ジョルジュはあっさり否定する。 「食事の後、君は自分の部屋に戻らず、研究室に直行だ。…違うかい?」 「〜〜〜!!」 あっさり見破られた算段に、影三は言葉を無くして、押し黙る。 そんな彼の表情を見て、ジョルジュは小さく笑った。 まるで、子供だ。 そんな彼が愛しくて、たまらない。 「じゃあ、行こうか」 手を差し出すが、その手を無視して、彼は大股で歩き出す。 しょうがない。とジョルジュもその後を追いかけた。 日本人は清潔好きとは噂で聞いてはいたが、それは本当なのだな。と、ジョルジュは改めて思う。 普段でも、影三は2日に一回程度、シャワーを浴びたり、風呂に入る。 それも、風呂となると、バスタブに並々とお湯をはり、入ったら30分は出てこない。 そんなに長い時間、何をしているのかと尋ねると、 「…何って…身体を洗ったり、髪を洗ったり…湯船に浸かったり…いろいろですよ」 彼はキョトンとして、答えたのだった。 純粋な好奇心から、一度それを見てみたい、と言ったことがある。 彼は少し考えてから「じゃあ、温泉に行きましょう」と言ったのだった。 母国である日本には、大勢の人間と一緒に入れるバスタブがあるのだという。 それが一体どんなものなのか、ジョルジュには想像がつかないのだが、 彼があんまり熱心に語るので、じゃあ、そのうち休みの時に、と話は決まった。 決まったのだが、その約束は実行されていない。 何せ、日本までの費用と研究の虫である彼の時間が、それを許さないのだ。 そして、今、彼はジョルジュの部屋のバスタブに浸かっている。 その間に、ジョルジュは買って来た野菜を煮込み、彼のリクエストであるカレーを作る。 料理はジョルジュの趣味だった。 本の通りに作業を進めれば、美味しい料理を作り上げることができる。 身体にもいいし、ストレスの解消にもなる。 ちなみに、影三に出会ってから、彼は炊飯器を買った。 お米と水を入れておくだけでご飯が焚けるというのだから、 それまで、鍋でご飯を炊いていたジョルジュには、驚きだった。 カレーが煮込みあがった頃に、真っ赤な顔をした影三が風呂からでてきた。 「あ--さっぱりした」 髪の毛を拭きながら、本当に気持ちよさそうだ。 「じゃあ、食事にしよう」 炊き立てのご飯に、出来立てのカレーをかけて、彼は影三の前にその皿と水の入ったコップを置く。 さきほどまでの不機嫌顔はどこへ行ったのか、今はニコニコ笑ってスプーンを持った日本人が一人。 「いっただきます!」 言うがはやいか、彼はすごい勢いでカレーを食べ始めた。 「そんなに慌てないで、まだまだあるから」 やはりお腹が空いていたのだろう。 彼は、息つくヒマもない勢いで、カレーを平らげ、コップの水を飲み干した。 「おかわり」 「はい、はい」 皿にカレーライスを盛って彼の前に置くと、またもやばくばくとむさぼりたべる。 まるで、大食い選手権だ。 「影三」彼の勢いを眺めながら、ジョルジュは「そういや、君、服の洗濯はどうしていたんだ?」 「服は」食べながら、影三は言った。「教授の秘書の女の子が…なんかしてくれました」 「ふうん」 「おかわり、いいですか?」 「いくらでも」 立ち上がろうとする影三を制し、彼はカレーライスのおかわりと、またもやコップに水を入れて持ってきた。 最初よりペースは落ちたが、やはり影三はばくばくと食べる。 「秘書の子ね…」 独り言のように呟く言葉は、影三には聞こえない。 「美味しかったです!ご馳走様でした」 3皿食べ終えて、影三はコップの水を飲み干した。 まさしく、怒涛の食事であった。 「コーヒーでもいれるよ」 皿を持って、ジョルジュはキッチンへと消える。 完全に姿が見えなくなってから、影三は音を立てないように、そ--と立ち上がった。 そして、やはり音を立てないように玄関へと向かう。 あと数歩という距離まで来たとき、影三の視界がぐらりと揺れた。 「…え…」 額を押さえて、壁に手をつく。 不自然に意識を襲うのは、眠気であった。 「影三」 呼ばれて、ぎくりと振り返る。「…ドクター・ジョルジュ…!」 「まったく、君は」 溜め息混じりに、ジョルジュは影三を横抱きに抱き上げた。 「え、わ!ちょ…エド!!」 抱き上げられて、慌ててじたばた暴れるが、体格の差か。ジョルジュはそのまま寝室へと向かう。 そして、そのままジョルジュのベッドへと下ろされて、上から押さえつけられた。 「私は、食べた後は寝ろと言ったはずだ」 「…は、なして下さい!」 「駄目だ」 自分を見下ろす彼の顔。灰色の前髪から見えるその瞳は、僅かに怒りを含んでいる。 それが少し怖くて、影三は視線を逸らした。 「眠りなさい」影三のその耳に、優しく言葉を囁いた。「こんなこともあろうかと、一服盛ったから。時期に眠くなる」 「ええ!」 思わず見上げた彼の顔は、悪戯に成功したのを喜ぶ少年のよう。 「あ、あの水ですか!」 「ご名答」 「卑怯じゃないですか!!」 「逃げ出そうとするのは、卑怯ではないのかい?」 「〜〜〜!」 やはり二の句が告げない影三の瞳は、徐々に眠気に蝕まれていく。 瞼が完全に降り、やがて影三は小さな寝息を立て始めた。 「世話の焼ける…」 眠ったのを確認しても、ジョルジュはその場から離れがたかった。 彼のYシャツのボタンを2つほど外し、律儀にしていたベルトを抜いてやる。 ベルトと、彼の持ってきた長白衣をサイドボードの上に置こうとして、ふと気づいてしまった。 長白衣のポケットに、開けられていない小さな封筒が入っていたのだ。 手にとると、それのは例の秘書の名前が書かれている。 さて、果たして、この日本人はこの手紙の存在に気づいていたのだろうか。 「…まったく…」 ジョルジュは、その手紙を元通りポケットに入れ、 そして安らかに眠る彼に毛布をかけてやる。 「…影三…」 彼へと、囁くようにジョルジュは告げた。「…愛してるよ、影三…」 その手紙を破り捨てたいのが、本音だった。 だが、それを決めるのは、彼だ。 選択するのは、彼だ。 「愛してる」 もう一度、ジョルジュは囁いた。 規則正しい寝息を聞きながら。大切な君のことを思いながら。