気づくと、新緑はきいろから赤へと色を移す。 そして紅く染まった美しい葉は、風に煽られて、とうとう枝からその身を空へと投ずる。 それは、毎年繰り返される、美しい光景。 本間はその色の風を眺めながら、ふと、思い出すことがあった。 こんな風に、色づいた風の中、彼は晴れやかに笑っていたことを。 その風の色は赤ではなく、桃染めであった。 葉ではなく花弁が舞い、花吹雪という言葉が、まさに合っていた。 『本間先生…本当に感謝します』 黒い学生服に身を包み、手にした卒業証書を見せに来てくれたのだ。 『俺は、先生のような医者になれるよう、がんばります』 真っ直ぐに私を見詰める、純粋な彼の眼。 その強い意志は、君の父親に良く似ていると、本間は思った。 だが、それは告げてはならない。 教えてはならない。 屈託なく笑う彼は、何も知らないまま。 ドクタージョルジュに、目にして欲しい論文があると、強引にマカオまで連れていかれたことがあった。 あの必死な彼の表情から、それが、ただの論文のお目通しではないことは分かっていた。 だが、正直、私は例のプロジェクトを抜けた身であった為、多少、敷居が高かった。 それでも、彼の真剣な口調と眼差しに、折れた。 彼のマカオの研究室は、ニューヨークのそれと、勝るとも劣らぬものだった。 一個人の資産でできる範囲のことではない。 嘗ての統率者である全満徳氏が、まともなビジネスをおこなってはいないことは、容易に想像がついた。 人目につかぬような、奥の部屋に通されると、そこには行方不明となっていた人物がいて、心底驚いた。 「…間クン…か?」 「…お久しぶりです、本間先生」 確かに、彼だった。だが彼は、思わず本人であることを確認したくなるほどに、痩せていた。 もともと、そんなに体格のいい方ではなかったが、まるで、女性のようにやせ細っていた。 「黒男が、お世話になっています」 礼儀正しく、彼は頭を下げた。 黒男。 彼は自分の子どもの名前を呼ぶ声が、震えていた。 「君は…」本間は、おもわず尋ねる。「大丈夫なのかね…随分と、痩せているが…」 「大丈夫です」彼は答えた。「時間がないので、用件だけを」 そう述べて、彼は薄い手帳のようなものを差し出してきた。 それは、日本に本社のある銀行の、預金通帳だった。 「なるべく、これに送金をします」 震える声で彼は言った。「厚かましいですが、どうかこれで…黒男に必要なモノを揃えてやって下さい…」 「…間クン…」 「お願いします、本間先生」 再び、頭を下げた。その声は、すでに涙を含んでいる。「黒男を親無し子にしてしまって、本当に申し訳ない事を… せめて、金ぐらいは…不自由させたくない…どうか、本間先生…」 「わかった」本間は、静かに答えた。「かわりに、黒男には君がマカオにいることは教えよう」 「…それだけは…!」 慌てたように、彼は顔をあげた。青ざめた表情で「俺みたいな父親がいれば…黒男に迷惑がかかりますから…!」 「違う」 やはり、静かに、しかし厳しい口調で告げる。「さっき、君は黒男を親無し子と言ったな。…そうだ、黒男の傍に親は居ない。 だが、君は生きている。どんな残酷な現実であっても、君は生きているんだ。子が親の居る場所を知るのは、当然の権利だ。 …間クン…辛いだろうが、黒男の事を悔やむなら、逃げてはダメだ」 「…はい…」 奥歯を噛み締め、彼は震えながら答える。 辛いと、思う。残酷だと、思う。だが 「…本間先生…最後に、もう一つ」 震える声。そして彼は本間に告げる。「…黒男には…絶対に…医者にはなるなと…絶対に、医者だけは…」 「努力しよう」 短い遣り取りだった。 それが精一杯だったのだろう。 これを見守っていたドクタージョルジュは、無言のまま、彼を見詰めていた。 そして、黒男は医学部に進学を決めた。 入学の費用などは、彼の父親が渡した通帳からだ。 彼は、彼の父親の金で、大学へ通っている。 毎月結構な額が送金されてくるそれの出所を、彼が大学を卒業した時に話した。 彼は黙って聞いて、そして、何も言わなかった。 逃げては、ダメだ。 間クン、君は今も生きているのだろうか。 君はまだ、あの男に囚われているのか。 君の息子は、天才外科医と呼ばれている。 未曾有の天才と呼ばれた君の血を、黒男はしっかりと受け継いでいるよ。 だから、いつか君たちが再会できることを、私は祈っている。 ある医師の回想