「あ、痛…!」
りんごの皮を剥いていた看護師は、驚いたように手を止めた。
「切ったのかい?」
りんごの皮剥きをのんびりと眺めていた初老の女性は「あらあら」と言いながら「大丈夫かね?」と尋ねた。
「ごめんなさい、もう、大丈夫ですから!」
笑って手を振るが、果物ナイフで切った左手には一つの血の筋が手のひらを伝い、女性をますます心配させた。 
「ごめんなさい、ちょっとバンソーコ貼ってきますね」
曖昧に笑いながら、看護師は女性に頭を下げ、近くにいた同僚に看護師に女性を頼み、自分は勤務室へと足早に急ぐ。
患者さんに心配させるなんて、ナース失格もいいところだ。
そんな自己嫌悪に駆られながら、看護師は勤務室の扉を開ける。
同僚のナースは居らず、机には心電図を眺める男性医師が一人。
「あ、かげ……間先生だけですか?」
「そうだよ」
自分と同じ日本人である医師だけしかいない安堵感に、思わず力が抜けた。
「どうしたんだ?」
 不思議そうに尋ねてくる彼から、隠すように指を背後に回す。
その不自然さが、かえって怪しまれることになるとは、彼女は気づいていない。
「…ちょっと…切っちゃったの…」
自分のドジを誤魔化そうと必死になりながら、彼女は勤務室の端にある、職員用の救急箱を開けた。
だが、
「見せて」
「ひゃあ!」
ぐい、と強い力で左手首を取られた。
その強さに驚いて、次の瞬間には頬が真っ赤に染まる。
「…大したこと、ないな」
傷を見て、彼は呟いた。「りんごの皮剥きでも失敗したの?」
「その通りです!」
あっさりと見抜かれた。
拗ねたように看護師は上目使いに、医師を睨む。
「ドジだな」
「あ!」
 笑いながら、医師は彼女の小さな指を口に含んだ。
 チュっと軽く、強く、その指から零れる血液を吸うと、手早くバンソーコを貼る。
「できあがり」
「あ、ちょっ…影三!!!」
それこそ、茹であがったタコにも劣らぬほどに顔を真っ赤にさせて、看護師は叫んでいた。
「けけけ血液感染したら、どーするのよ!!」
「先週の感染検査はマイナスだったんだろ?」
「そういう問題じゃないわよ!!」
「まあまあ」
「まあまあじゃないわよ!!」
 勤務室での日本人二人の痴話喧嘩。
 それは、ここバード病院の名物になりつつあった。


『同僚以上恋人未満』