手馴れた手つきで、そのドアを開ける。 傍らにいた男は、ズカズカと先に部屋へ入り込み、 部屋中央のダブルベッドの脇に備え付けてある冷蔵庫から、缶ビールを取り出した。 ぷしゅ。缶を開けている間に、部屋の奥にある、大きな窓を全開にした。 外からの風は、近い海からの潮の薫りを運んでくる。 それは、いつもの予定調和。 「お前、この部屋が好きだな」 缶ビールを半分ほど飲み干してから、彼が缶を差し出してくる。 無言でその缶を受け取り、その残りを飲み干した。 ビールは苦手だが、彼の残りは悪くない。 「いつも同じだ」彼は少し笑いながら言った。「俺がビールを飲んでいる間に、お前が窓を開ける。 そして、俺は缶の残りをお前にやって、お前はそれを全部飲む。それから----」 「それから?」 いつもより饒舌な唇を、自分のそれで塞ぐ。 彼は、満足したようにその瞳を閉じた。 潮風が、彼の髪を揺らす。 少し癖のある彼の髪。白と黒の不思議な色。 触れると意外と柔らかいその髪を撫でるのが、好きだ。 抱く彼の身体は、決して華奢とは言えない、むしろ、骨格がいい。 決して抱き心地がいいとは言えないが、それでも、闇を纏い人を寄せ付けない彼が、 この腕の中では、柔らかに美しく身を任せているのが、なんとも言えず、くすぐったい。 「…おい…」 唇を離すと同時に、彼は上目使いに見詰めながら 「キスするときは、目を閉じろ」 「いやだね」 「礼儀だろ」 「知らんね」真剣な彼の表情が、美しい。「俺は、キスされているお前を見るのが好きなの」 「変態死神」 「どうとでも」 拗ねたような表情の彼が、とても幼くみえた。 覚えてるかい? このホテルのこの部屋が、お気に入りの理由。 だって、ここは思い出の場所なんだよ。 手馴れた手つきで、そのドアを開ける。 傍らにいた彼は、ズカズカと先に部屋へ入り込み、絶句した。 部屋の奥にある大きな窓を全開にする。 外からの風は、近い海からの潮の薫りを運んでくる。 「観てごらん、影三。海が見えるよ」 「エドワ−−ド!!!」 金縛りが解けたのか、絶句していた影三はやっと声を上げて、部屋中央のベッドを指差した。 「ななななんで、なんで、ダブルベッドなんですか!!」 「大丈夫」呼ばれたジョルジュは笑いながら「ツインと料金は変わらないから」 「そういう問題じゃないでしょう!」 「そんなことより、ほら」 窓の外を指差しながら、ジョルジュは笑う。「海が見えるよ。君の故郷みたいで懐かしいだろう?」 「…島国出身が、全員、海を見て育ったわけではないですから」 「影三、怒ってるのかい?」 能天気とも言える言葉に、影三はジロリとジョルジュを睨む。「怒ってないとでも?」 「そうか」ジョルジュは、小さく息をついた。「じゃあ、ズバリ言うけど、影三。君は無防備過ぎる!!」 「………はあ?」 あまりに脈絡のない台詞は、影三の天才とされる頭脳をもっても理解不能だった。 だが、その台詞を発した張本人は、至極マジメな顔で、影三に詰め寄る。 「まったく、君のような美人な東洋人が無防備にいると、 いつ食べられるか…と、私は毎日冷や冷やしているよ。もう、心配で心配で、胸が張り裂けそうだ」 「…俺は、貴方に身の危険を感じますよ」 「それは誤解だ。心外だ」ジョルジュは大袈裟に溜め息をつき、そして 「影三。私は君を愛しているだけだ。それ以上でも以下でもない。ただ、君を愛したいだけなんだよ」 「……それは、ありがとうございます」 「信じてないね、まあいい」 苦笑しながら、ジョルジュは言葉を続ける。「君は、君が思っている以上に魅力的で、 狙われているという自覚を持った方がいい。例えば、薬学のジョーイとか、ドクター・ハインツとか」 「そんなわけ、ないでしょう」 呆れたように笑う彼に、やはり内心でジョルジュは溜め息をついた。 東洋人である彼は、ただでさえ可愛いらしく見えるのに、 ましてや彼は誰もが認める素晴らしい閃きと頭脳を持っている。 未曾有の天才とも呼ばれているぐらいだ。そんな彼に本気で惚れる者、貶めようと嫉妬するもの、 そんな飢えた狼のような場所にいるというのに、彼はあまりに無防備で、あまりに美しかった。 だからこそ、心配でならない。 ジョルジュも彼に惚れる者の一人ではあったが、だが、彼が欲しいのではない。 そんな欲なども起こらないぐらいに、惚れているのだという自覚があった。 そう、純粋に彼を愛している。 だからこそ、彼をそんな醜い欲望から守りたい。 それだけが、ジョルジュの願いであり、使命でもあった。 「でも、いい部屋ではありますね」 溜め息混じりに、影三は笑って見せた。 そんな表情を見るだけで、ジョルジュは満たされる思いだった。 まるで、天使のような笑顔だと思った。 「海が綺麗だ」 ベランダで、独り言のように彼は呟いた。「いい部屋ではあるよな」 海が好き。それは昔から変わらない。ただ一つ変わらないものなのかも、しれない。 ベッドに腰をおろし、彼の名前を呼んだ。 そして、腕を開き、そして「おいで」と声をかける。 彼はその黄色い頬を真っ赤に染めて「馬鹿」と呟くながら、隣に腰掛けた。 「…お前、変だぞ」彼の頬はまだ紅い。「この部屋に来ると。なんだか、妙に優しくて」 気が狂う。 そんな失礼な台詞を、彼は呟いてみせる。 照れ隠しなのだろうか。 伏せられたその長い睫が、綺麗だと思う。 「じゃあ、狂っちまえよ、ブラック・ジャック」 罵倒や諍いの言葉には、威勢良く応戦するくせに、優しくされると、戸惑ったように、瞳を伏せる。 慣れていないからか。それとも。 強引にベッドに押し倒した。 途端に見開かれる、紅い瞳。 静かに視線が絡み合い、彼は、彼の瞳が熱に溶けた。 「…キリ…」 掠れた声で呼ぶ彼に、口付けを落す。 途端に、彼の唇からは、熱い息が洩れ始めた。 真っ青なリボンタイをシュッと解き、ワイシャツの小さなボタンを外していく。 まるで、初めての性行為のようで、恥ずかしいような、初々しいような。 首筋をきつく吸い上げると、彼は切なげな声をあげた。 彼の、そんな声を知っているのは、この世に何人いるのだろう。 無数の縫合痕の散る彼の身体。 それでも、その身体に夢中なのは事実。 快楽に溶ける声に、この冷たい身体にも欲情の熱が帯びてくる。 強引に気分転換と称して連れてきたのは、いつもの部屋。 ジョルジュは彼の手をひき、室内へと入ると、そのダブルベッドに腰を下ろして彼を呼ぶ。 「おいで、影三」 「…いやです」即答する。「俺に構わないで下さい。ドクター・ジョルジュ」 俯いたまま、彼は動かなかった。 彼にとって辛辣な出来事であった。事の顛末しか聞いてはいないが、彼の研修者としてのプライドを 無残にも踏みにじるような、事件だった。 ジョルジュは立ち上がり、強引に彼の腕をひきよせ、無理矢理抱きしめる。 「はなせ!!」 当然、暴れる彼をジョルジュは力づくでベッドへと押さえつけた。 怯えたような瞳。 それを見下ろしながら、優しい声でジョルジュは告げる。 「…影三…悔しければ泣けばいい。罵倒すればいい。こんな時こそ、私を利用しろ。 君が一人で苦しみ耐えるのは、私には耐えられない」 くしゃりと、影三の表情が歪んだ。 「…あんたに…!何がわかる!!」 胸倉を掴み上げて、歯を食いしばる。わなわなと震える手は、悔しさに比例して。 押し殺すことはない。私は、君のどんな感情だって受け入れられる。 君が苦しむ姿だけはみたくない。 だから、お願い。一人で泣かないで。 一人で苦しまないで。 君と同じぐらい深い傷を、私にも刻み付けて。 初めてあった時のことを覚えているかい? それは、甘美で、ロマンチックで、残酷な科白。 覚えている。今でもはっきりと、鮮明に。 君も私も、まだ幼いこどもだった。 少年と呼ぶにも、まだ早かったぐらいに。 父親に連れてこられたのが、この部屋だった。 大きな窓に続くベランダからは、青い青い海が見渡せた。 それはとても美しく、とても壮大な眺めだった。 気がつくと、ドアから東洋系の親子が入ってきた。 父親がひどく嬉しそうな顔をしたのを、覚えている。 子どもの方は、自分と同じ年頃だった。 大きな瞳が鮮やかに紅く、綺麗だな、と思った。 彼はベランダから見える海に、とても喜んだようにみえた。 そう思ったのは、彼の表情からで、恐らく、彼の喋る言語が理解できなかったせいだ。 きらきらと光る笑顔が、脳内に焼きついて離れない。 その少年とは、私たち。 出会ってから数年後に、残酷な事故にあった彼は、一命をとりとめたが、 事故前の記憶は曖昧なのだと、告げられたことがある。 それは、意図的に忘れようとした、彼の意思もあっただろうが。 このまま彼と溶け合えてしまえばいいのに。 そんな馬鹿なことを考えるほど、この部屋に来ると、甘く甘くなる思考。 確かに、気が狂いそうだ。 気だるい安寧が永遠に続けばいいだなんて。 「…キリコ…」 猫のように身を摺り寄せてきながら、彼は名前を呼んだ。 返事の変わりに、名前を呼んでくれた唇に、口付けを落す。 彼は満足そうに笑うと、そのまま眠りへとおちた。 彼は幼い頃の記憶が無い。 それは残酷な事故の後遺症と、そして彼の意思。 そうしなければ生きてこられなかった、彼の決意。 なあ、ブラック・ジャック。 そうしなければ生きて来られなかった君にとって、 俺はどんな存在だったんだろうか。 ただの異国のオトモダチ。手の届かない、二度と会うことの叶わない。 思い出してもいけない、存在になっていたのか。 なあ、それでも。 俺にとっては、君との思い出が生きる糧になった時期があったんだ。 あの戦場で。 俺は、もう一度君に会いたい、と。 死にかけた、片目を失くしたあの時に、思ったんだ。 生きて、君を探し出して、ただ会いたい、と。 この部屋に来ると、気が狂う。 それは甘く、狂おしい思い出が詰まっているからか。 それでも私は、この部屋で、君を抱くことが。 思い出の部屋