自宅兼診療所に、今日は遅くなると連絡を入れたのは、恐らく予感がしたからか。 うんざりする、胸騒ぎ。 闇稼業に足を踏み入れてから、外れたことのない、第六感。 それがうんざりする理由は、この胸騒ぎの理由をなんとなく、または正確に把握していたから。 うんざりするけど、ステアリングを握る指先が冷えてゆくのが分かる。 冷たい汗が額を滑り落ちる。 車を走らせて、30分は経ったか。 場所は林の奥に、人目を忍ぶかのように立つ洋館。 勢いよく車のドアを閉めると、診療鞄をてに持って真っ直ぐにテラスへと向かう。 どうせ、玄関の扉は開かない。 夕闇に落ちる林は、まるで一足先に夜を運んできたみたいに、暗かった。 それでも。 林と同じ夕闇に沈む室内は、まるで中を伺えないはずなのに、なのに浮かぶように見えるのが、目立つ銀髪。 白に近い色の死神の髪。 窓も開かなければ、遠慮なく割って入ろうと思っていたが、予想に反して窓は開いた。 「……どうした、先生」 驚くこともなく振り返る死神に、ぎくりとした。 その碧眼は充血し、皮肉な笑みはまるで悪魔が笑っているみたい。 手にしていたグラスを奥と、死神は立ち上がった。 その白銀の髪が所作にあわせて、音もなく揺れる。 「わざわざ商売道具まで持って」抑揚のない、死神の声。「珍しく、俺を無料で診察してくれるのか?」 「…必要ならな」 「生憎と、俺は健康体でね」 ことん。手にしたグラスを置き、死神は手を伸ばす。 そしてそのまま、胸元の赤いリボンタイに触れてきた。 「可愛い、男だな」 充血した碧眼。蒼と紅の奇妙なコントラストが、狂気を演出してるみたい。 シュッ…と微かな音と共に、死神はリボンタイを取りさった。 そして、きっちりと止められたカッターシャツの第一ボタンに触れる。 「何があった」 胸元の手を掴み、尋ねた。 隻眼が可笑しそうに瞬き「さあ」と小さく答えた。「何もなかったけど…先生が何かあったって思うなら、 何かあったんだろ?」 「仕事か」 「さてね」 「キリコ」隻眼を見詰め、言った。「眠れ。添い寝してやる。だから、ベッドへいけ」 「へえ」 形のよい死神の眉が、僅かにあがる。「添い寝…ね」 「不服か」 「いや」死神は言った。「従いましょう。ドクター・ブラック・ジャック」 床へ落としたリボンタイを拾い上げ、死神はベッドルームへと向かう。 先刻の。 驚くこともなく振り返る死神に、ぎくりとした。 まるで死神のようだった。 まるで悪魔のようだった。 その恐ろしい眼つきのまま、君は異形の獣にでも成り変り、そのまま闇に消えてしまいそう。 やっと巡り会えた君が、俺の手を離れて、また一人で旅立ちそうで。 「おいで、先生」死神が手招きをする。「一緒に行こう。添い寝、してくれるんだろ?」 一緒に行こう。 そうだ、お前と共にいられるのなら、どんな努力も惜しまない。 差し出された手に、躊躇しながらも手を重ねる。 心臓が早鐘をうった。 ただ、手を繋ぐだけなのに。だけど、それは、懐かしい思い出。 またこの手に巡り会えた奇跡。 だけど互いに、手は真っ赤に染まって、幼少時の面影なんかない。 互いの身体にべっとりと、赤い、赤い、手形をつけて。 もう二度と、離さないように。 自分の手形を、所有物の証に。 だから、今は、俺の横で眠れ、死神。 今だけでも、俺のものに。 薄 闇