文献を読み漁りながら、影三は机に広げたレポート用紙に、がりがりと書き込む。 まるで殴り書きのようなアルファベッドが、紙面を埋め尽くすが、最後の一行を書き込んでから、 影三は手を止め、ボールペンを放り投げた。 「…駄目だ!こんなんじゃ」 頭を抱え込み、彼は机にうつ伏した。あまりに根を詰めすぎたせいか、耳から白煙が噴出しそうだ。 どうしても、うまくいかない。 「はあ…」 珍しく、影三は大きくため息をついた。 確固たる理想がある。だが、それを実現させるには、一人ではどうしようもない。 いち学生が取り組む研究内容にしては、あまりにも壮大すぎるのも、よく分かっていた。 だが、どうしてもそれに取り組みたかった。 そうでなければ、わざわざ研究医になった意味がない。 しかし、現実はそう甘くは無い。 「煮詰まってるな、ハザマ」 文献に埋もれている影三に声をかけてきたのは、先輩にあたる院生だった。 彼は影三が頭を上げるのをみてから、研究室の扉を指差した。 「ドクタージョルジュが来てるぞ」 「…げ…」 影三は手早く机の上を散らかす原因となっている文献たちを一纏めにすると、ニヤニヤ笑っている院生に 早口で「今日は失礼します」と告げると、廊下へと飛び出した。 陽は落ちていたが、まだ灯かりのつかない廊下。薄暗くて肌寒い。 「お、もういいのかい?」 その廊下には、院生が言うようにジョルジュがいた。 「ドクターこそ」影三は睨むように、顔を見上げて「こんな時間に、もう終わりですか?」 「あ、うん。まあね…」 表情はいつもの笑顔だが、珍しく歯切れが悪い。 いや、その笑顔も、微かに違和感があることを、この東洋人は見逃さない。 「何を、隠しているんです」 知らず、知らず、影三の声が低くなる。 不機嫌になる兆候を見てとったジョルジュは「実は…」と視線を落とした。 つられて影三も視線を落とすと、そこには、今まで上ばかりをみて気づかなかったのだが、 ジョルジュの足に隠れて、小さな栗色の頭が見え隠れしている。 やがて、その栗色の頭が顔をのぞかせ、はにかんだ。 顎のラインで切りそろえられた栗色の髪に、四つほどの小さな紅いリボンで彩られている。 大地色の大きな瞳に、桜色の小さな唇。そして影三と同じ、色のついた肌。 恐らく日中系と思われるその少女は、とても可愛らしく、その小さな頭をぴょこんと下げて会釈をした。 「…誰との子です」と、影三。 「私の子どもじゃないよ」と、ジョルジュ。「さっき、外で会ったんだ」 「本当に?」 「…本当だよ」 「責任とって、って押し付けられたわけでもなく?」 「あのね」呆れ顔でジョルジュは「そんな事情なら、絶対に君には会わせないだろう。…この子、日本人 みたいなんだ。英語が全然解らない、らしくて」 「日本人?」 影三は膝をおって、少女に目線をあわせた。 大きな大地色の瞳が自分をうつし、不思議そうに瞬いている。 「日本語なら、解るかい?」 滅多に使わない日本語で、影三はゆっくりと話しかけた。あまりに久しぶりなので、伝わるか不安だった。 だが、少女の表情はみるみる笑顔に変わってゆく。 「おにいちゃん、日本語しゃべえゆの?」 舌たらずな喋り方だったが、確かに日本語だった。 ゆっくりと影三は頷く。「ドコからきたの?迷子なのかい?」 「う〜ん」少女は腕組みをして「迷子じゃないよのさ。ちぇんちぇいが、さきにほてゆに行ってなさいっていうから ひといでほてゆを捜していたところなの」 「ホテル?そのホテルの名前は?」 「忘れちゃった」 てへへ。と少女は笑ってみせた。あどけない仕草と表情が、可愛いらしい。が、 「…じゃあ、パパの名前は?」 「ピノコ、パパはいないよのさ。家族はちぇんちぇいだけ」 「そっか」と、影三。「ピノコちゃんって言うのかな?じゃあ、先生の名前は?」 「………。」 嬉しそうに話していた少女は、急に口を噤んだ。 少女が言う先生とは、天才外科医と称されるブラック・ジャックの事である。 だが彼は、医師免許を持たず、高額な診療報酬を請求する闇医者。 依頼者以外の人間にBJの名前や素性を明かすことは、天才外科医の身に関わることであり、少女も 極力、BJの名前を出すことも、ましてや、自分が彼の奥さん(笑)であることも、公言しない。 「らいじょうぶ、ピノコ、自分でなんとかすゆから」 英語が苦手な少女にはとても不安ではあったが、親切な彼らに迷惑をかける訳にもいかない。 「あいがとうございました」 ぺこり。と頭を下げる少女に「ちょっとまって」と、影三は少女の手をとる。「もう、時間を遅いから危ないよ。 じゃあ…せめて、その先生の行き先は分かってる?」 「行き先ってゆうか…」 勿論、このニューヨークには仕事で来たのだが、実はここの近くまで来たとき、死神の化身に出くわしたのだ。 それが偶然なのか、必然なのかは分からない。 天才外科医は、死神の化身の仕事を阻止する為に、彼の後を追っていったのだ。 『奴を締め上げた後、そのまま病院へ行く。お前はホテルにいろ』 今頃、天才外科医と死神の化身の大乱闘が催されている頃だろうか。 その後、依頼主のところへ向かうと言っていた。 詳しくは聞いていないが、最低三日はかかると言っていたと、記憶している。 三日以内に、ホテルを探し出せばいいのだと、少女は考えていた。 「じゃあ、一緒にホテルを捜してあげるから」 優しそうに笑って、少女の手をとる青年が言ってくれた。 その表情が、ドコかで見たような気がした。いや、誰かに似ているような。 「一緒に、行こう」 そう言ってくれる青年の言葉に、少女は大きく頷いた。 ****** 「カレーはボンカレーが一番らって、ちぇんちぇいはいうんらよ」 「へえ〜、その先生と気が合いそうだな」 「お兄ちゃんとちぇんちぇいなら、いいお友達になれゆと思う!」 食卓に座って和気藹々とする二人を見ながら、ジョルジュは夕食のカレーを作っていた。 結局、少女の泊まるホテルは見つからず、警察に行こうと言っても頑なに拒むので、ジョルジュの部屋に 泊まることになったのだ。 日本語が分からないジョルジュには、二人の会話は分からない。 だが、少女と二人 で、あんなにも楽しそうな影三を見るのも初めてなような気がする。 幾つもの通りを歩いても少女は、見覚えが無いと言っていた。 話を聞くと、ニューヨークは何度も来ているらしい。 だが、歩いても、歩いても、少女の見慣れた通りや、少女の知る店は発見できなかった。 言葉や表情にはださなかったが、少女が不安を膨らませているのは分かった。 「アイスでも食べようか」 そう提案したのは、影三だった。 普段、彼はそんな気の利いたことを言う人物ではない。 小奇麗なアイス屋でカラフルな3段重ねのアイスを食べる姿を、彼は実に穏やかな笑顔で見守っていた。 「おいちかった!」 満足そうに笑う少女に、影三は「それはよかった」と笑って、紙ナプキンで少女の口元を拭った。 「それじゃあ、痛いだろう」 ジョルジュがポケットからハンカチを取り出して、少女に渡す。 「あいがとう」 少女は、ハンカチで口元を拭いてそれを返そうとしたが、それをやんわりと押しやった。 「それは、あげるよ。適当に使ってくれれば、ハンカチも喜ぶよ」 「さすが」 そのハンカチをあげる、という旨だけを通訳した後、影三は呟いた。「女性を口説くのがお上手で」 「他意はないよ」と、ジョルジュ。「影三、その件に関しては、君は大いに誤解しているよ」 店を出て、少女は影三に手を繋ごう、と言った。 戸惑いながらも、彼はその小さな手を握る。 二人で手を繋いで歩く姿は、親子、もしくは年齢の離れた兄妹のようにもみえた。 やはり同郷だからなのだろうか。 まさか、幼女趣味…ということはないと思うが。 ふと、ああそうか、と気づく。 自分を頼る小さな手が、影三には新鮮で、温かいのか。 肉親のいない彼は、そんな温かさとは無縁だった。 握った手の小ささに驚き、そして、その手に頼られる事が嬉しいのか。 二人で手を繋いで歩く姿は、親子、もしくは年齢の離れた兄妹のようにもみえた。 当たり前のようで、彼には与えられなかった光景にも。 ふと、少女が空いている手をジョルジュへと差し伸べてきた。 「手を、繋ぎたいそうですよ」 影三の言葉に、少し驚いた。 少女は嬉しそうに笑って、手を握る。 カレーライスを食べた後、少女は呆気なく眠りにおちた。 たくさん歩き回って、疲れたのだろう。 影三は、少女の小さな体を抱き上げると、寝室のベッドに下ろして、布団をかけてやった。 安らかな寝息をたてて眠る少女。 先生とはぐれて、心細かっただろう。それなのに、少女は泣くことも無く振舞っていた。 気丈で聡い少女だと思う。 少女の会話から、件の先生と一緒に暮らしていることが分かった。とても楽しそうに先生のことを話すのを 聞いて、少女は先生をとても信頼し、敬愛し、良い関係をもっていることが伺える。 少し、羨ましく思った。その先生が。 「眠ったのかい?」 寝室から出てきた影三に、ジョルジュは声をかけた。 「ええ」 小さく答えてから、影三はソファーに座る彼の傍まで来ると、背中を彼に預けてソファーの上で膝を抱えて座り込んだ。 それは甘え下手な彼の、精一杯な甘え方。 「どうした、影三」 後ろ向きの彼の頭を、ジョルジュは優しく撫でてやる。「疲れたのかい?」 「もし」 膝を抱えたまま、呟くように影三は口を開く。「もし、ピノコちゃんの先生が見つからなかったら」 「見つかるだろう」 「見つからなかったら」影三は言った。「俺が引き取るのは、駄目なんですか」 「ええ〜?」 あまりに予想していなかった言葉に、ジョルジュは素っ頓狂な声をあげてしまった。 思わず彼の顔を覗き込むと、決まり悪そうに、膝を抱えたまま視線をあわせない。 「それは…どうだろう」 なんと答えたものか、ジョルジュは言葉を逡巡させるが、膝を抱えて丸まった背中を見て、ふと、気づく。 「影三〜!」 「うわっ!」 膝を抱えた格好のまま、ジョルジュは彼を背後から抱きしめた。 そして、その首筋に顔を埋める。 「妬けるな」埋めたまま、ジョルジュは言った。「今はまだ…私は、影三が必要だから」 「………。」 言葉には応えず、影三はただ小さく息を吐いた。 見破られている。それだけは、実感した。 少しだけ、羨ましかった。 あの、幼い少女に信頼され、尊敬されている、あの少女が必要としている先生が、少しだけ羨ましかったのだ。 エドは自分にとても優しかった。 その優しさに救われ、でも今はとても切ない。 その、両腕が戒める優しさが。 その、両腕から伝わる温かさが。 ****** 朝、ベッドに少女はいなかった。 ベッドには小さな紙切れが残されていた。そして拙いアルファベッドが記されていた。 『ARIGATO』 と。 「いつの間に出て行ったんだ?気がつかなかったなあ」 ジョルジュは玄関を見に行き、もう一度寝室に戻ってきた。 朝早く出て行ったのか、少女の気配はドコにもない。 まるで、昨日の出来事は夢だったのではないか、と疑ってしまうぐらいだ。 「…夢じゃなかった…」 ぽつりと呟く言葉。 ジョルジュは、寝室で佇む彼を見て、僅かに驚いた。 「…影三…」 名前を呼ぶジョルジュの声も、遠く感じる。 夢じゃなかった。 あの笑顔や、声や、小さな手は、決して夢などでは。 だって、今でも思い出せる。 少女の仕草の一つ一つも。 手を伸ばし、ジョルジュは彼の黒髪を、くしゃくしゃと乱暴に撫でた。 「あの子は、帰ったんだよ、無事に」 早口に言う言葉。 その言葉に、影三は頷いた。 早朝。 悪いと思いつつも、少女は部屋を抜け出した。 それは、予感。 今、外へ出ないと帰れなくなるような、彼に二度と会えなくなってしまうような。 昨日はどれだけ歩いても、少女の知る場所にはたどり着けなかった。 いや、なんとなく見たことがあるけど、でも何かが違う。 それがなんなのかは、わからなかったけど。 「あえ?」 しばらく歩いてゆくと、いつの間にか、見慣れた通りを歩いていた。 昨日、あれほど歩いてもたどり着かなかった、ストリート。 ぴょこぴょこと、足早に歩く少女の目は、はっきりと彼の姿を捉えた。 黒い外套、診療鞄、黒と白に分かれた長めの髪。 「ちぇんちぇい!」 「ピノコ?」 幼い声に振り向いた彼は、少女の姿を認めて歩みを止める。「ホテルで待っていろと、言っただろ」 「おちごと、終わったの?」 「ああ」 「ちょ、よかった!」 少女は、その小さな手を彼の手に絡ませる。 彼はそれを振り払うでもなく、そのまま、先程まで歩いていた方向へと足を向けた。 「ほてゆ、ね」 やはり、ぴょこぴょこと、少女は歩きながら、報告する。「ピノコ、泊まらなかったの」 「なに?」彼は少女を見下ろしながら「じゃあ、どうしていたんだ」 「親切なお兄ちゃんの家に泊めてもらったのよさ」 悪びれずに告げる言葉に、彼は軽い眩暈を覚えた。 日本の田舎ならいざ知らず、ニューヨークのそれもお世辞にも治安の良いとは言えないここで他人について行くなど、 殺されたって、文句は言えまい。 「いい人やったよ」 「そいつの名前は」 「ちらない」と、少女。「でも、もう一人のおじさんのこと『エド』ってゆってた」 「……そりゃ、ありふれた名前だな」 手がかりにすらならないほど。 少女は無事でありようなので、彼は少女を誘拐(と認識)した二人組の制裁を諦めた。 「…でね、お兄ちゃんはカレーライスがしゅきなんだって!…あえ?」 「どうした」 会話が途切れて、彼はその原因を尋ねる。 少女はポケットから、見慣れない男物のハンカチを手にしていた。 「おじちゃんのハンカチ…持ってきちゃった」 「貰っておけ」 素っ気無く言う彼の言葉を、少女は「うん」と受け止める。 ハンカチをたたみ、少女はそれをポケットに入れる。 宝物を扱うように、丁寧に。 「また、あえゆかな?」 「さてね」 「本当に優しいお兄ちゃんらったよ」 少女は、きゅ。と彼の外套の裾を握った。 「…ちぇんちぇいに、よく似てたよのさ」 小さい少女の呟きは街の雑踏に紛れ、彼の耳に届いたかどうかは分からなかった。 (おわる) 夢の出来事