CORPUS DELICTI
「あなたがワトソン博士ですね!お会いできて光栄です!」
力強く両手で医師の手を握るのは、次期公爵のリチャードだった。
巻き毛の金糸に、キラキラと輝く大きな碧眼は、まだあどけなさを残した少年のようだったが、背はワトソンよりもはるかに高い。
「ワトソン博士は、我が大英帝国が誇る陸軍におられたのですよね!ああ、なんと輝かしい!素晴らしい方だ!」
「ど、どうも」
熱烈な歓迎振りに、医師はドギマギしながら視線を泳がせた。
壁には、なるほど、英国陸軍に関する新聞記事や、絵画、そして写真までもが所狭しと貼られている。
戦場の写真に混じり、医師が見つけてしまったのは、あの忌まわしきアフガニスタンの記事。
マイワンドの戦いの新聞記事だった。
■ 6 ■
一度は後にした屋敷に再び戻ってきたのは、リチャード夫妻がどうしてもと探偵たちを呼び寄せたからだった。
先ほどのエルシーの態度を思えば、なるべく近づきたくはないのが医師の本音ではあったが、
「行かねばなるまいよ」
と飄々と答える探偵の言葉に、暗澹たる気持ちで訪れたのだ。
その暗く重い気分が何処から来るかは正直分からなかったが、たくさんの戦場の写真を見るだけで、医師は心が硬くなる思いだった。
連隊付きで参加した戦場。その生々しい体験を話すことを、医師はあまり快く思っていなかった。
まだ、その精神の傷跡は血液を滴らせ、塞がっては居ないから。
リチャードは得意げになって、戦場の話や、陸軍の話をしてみせた。
それらは新聞などで見聞きしたであろう知識だろうが、演説のような口調で矢継ぎ早に述べるその言葉に、医師は違和感を覚える。
それは相槌などを求めていない、狭窄した世界の中で、まるで自分自身のみにだけ話している様な。
気付いたワトソンは、注意深く観察をした。医師の目で、そして元軍医として。
「ねえ、あなた」
緊張感を強いる時間を切り裂いたのは、甲高いエルシーの声だった。「私、博士がとても気に入りましたの!どうぞ。ここに滞在なさったらいかがかしら?」
「それはいい!名案だ!!」
「いや、僕は…!」
「せっかくですが」
黙々と調べていた探偵が、急に存在を際立たせ、医師を庇うように聳え立つ。「僕たちは、この屋敷に歓迎されておりません。ですから、あまりここに近づかないほうがいい。そうですよね、バトラー」
「ええ、できましたら」
「貴方にそんな事を言う権利はありませんッ!」
執事の言葉に、エルシーは激昂したように叫んでいた。「私たちが言っているのよ!ねえ、貴方!」
「そうだ!」リチャードも妻に負けぬ激しさで叫びだす。「僕は次期当主だ!次期当主だ!それでいいじゃないか、ねえ、ワトソン先生ッ!!」
「いや、ミスター落ち着いて」
労わる様に、ワトソンはリチャードの肩に手を置いた。
そして、バトラーより水を一杯貰い、リチャードの手に持たせた。
「申し訳ありません」済まなそうに、医師は頭を下げる。「せっかくの申し出ですが、またの機会にさせてください」
そして、医師は笑った。
それは患者を安心させる、彼の温かな微笑だった。
「ああ、それじゃあ、今回は仕方が…」
手にしたコップの水を飲み干し、リチャードは落ち着いた口調で答える。「では、また明日にでも」
「ええ、お伺い致します」
笑みを崩さずに答えるその様は、まさに医者の往診のような光景だった。
■■
「あの次期当主は、発作を有する持病を持っているね」
宿屋に戻り、探偵が最初に言葉にしたのは、そんな事だった。
医師は「よく分かったね」と驚きを口にする。「あれは興奮すると誘引される発作だと思う。あのまま激昂したら、きっと倒れていたよ」
「それは、家族性のものかい?」
「どうだろう…でも、発作の持病を持つ人の親族には、やはりそんな発作を持つ患者がいるとは、聞いた事があるよ」
「ふむ」
探偵は顎に手をやり思案顔であったが、すぐにパッと表情を変えた。「あの家には、少なくとも3人の息子がいたと思うんだけどね」
「三人?リチャードのほかに、あと二人?」
「名前だよ」探偵は言った。「あれほどの家であるなら、当然、長男は名前を継いでいそうなものだ。それと、卿の年齢と廊下の肖像画…ねえ、ワトソン君。どうやら、この事件は過去まで遡る必要が出てきたみたいだよ」
「過去に、何かあったのかい」
「猟奇殺人が起こったって、普通は吸血鬼の仕業だとは言わない。恐らく、吸血鬼を連想させるものがこの事件にある…過去に類似した吸血鬼事件があったとかね。とにかく、それを探るとしよう」
「具体的には、どうするんだ?」
医師の言葉に、探偵はにやりと笑って見せる。「君が女性なら、酒場で男どもの口を軽くしてもらうのだがねえ」
「ほ、ほーむず?」
嫌な予感がする。
探偵は、そんな医師の心情を見抜いたように「ここはやはり」と言った。「ロンドンで高名なドクター・ワトソンの出張診療所かな?」
「へ?」
画して、嫌な予感は、当たったようなものだった。