LINEはじめました


 きっと無駄。
 洗物の手を止めて、洗濯物を干している最中に、スーパーで林檎を選んでかごに入れてから。
 そう、自分にいいきかせながら、少女は、携帯電話のディスプレイをタップする。
 何も変わりのない画面。
 通知領域にそれを知らせるアイコンは、ない。
 それでも。
 緑色のアイコンを、少女は小さな指でタップする。
 分かっている。そう言い聞かせる。自分自身に。
 起動したアプリケーションの画面は、何度見ても代わり映えしない。
 あるのは、少女が入力した文字列。
 他愛の無い短いコメントが、並ぶだけ。
 そのコメントに返信してほしいなどとは、思ってない。
 ただ欲しいのは、そのコメントの横に『既読』の二文字。
 読んだ証拠である、その二文字だけで。
 ただ、それだけ。

 そのアプリは、少女が半ば強引に、天才外科医の携帯電話にインストールした、LINE。
 そのアプリを使用して、少女は天才外科医へとメッセージを送り続ける。

 別に、返信しなくてもいいよのさー。
 読んだら”既読”って表示されるから。
 ちぇんちぇいが読んでくえたってわかるからー。

 天才外科医がメッセージを読んでくれたと分かるから、インストールしたアプリケーション。
 それが今、こんなにも、恐い。
 大丈夫。ただ、読んでいないだけ。
 忙しいから、読んでいないだけ。
 言い聞かせる少女は、手を止めていた家事を再開させる。





 もしかしたら、永遠に終わらないのではないかと、その場に居合わせた医療人は恐怖を覚えた。
 唯一人、そのざわめきの中で皮肉に笑う白銀髪の男は、無言で待ち続ける。
 何故なら、慣れているから、だ。
 半日はとっくに過ぎた。
 器械出しの看護師は三人交代した。サポートの若い医師は、崩れるように倒れた。
 それでも、執刀医である天才外科医は顔色一つ変えずに、全神経を研ぎ澄まし、手術野を見詰めている。
 神の手と称されるそれは、人間のものとは思えぬような微細な動きをし続け、まるでよくできた映画のよう。
 安楽死を望む女性が呼んだ死神の化身は、その女性の息子が呼んだ天才外科医と鉢合わせとなった。
 この程度の病状で殺すつもりか。
 天才外科医の憤りに、じゃあやってみせろよ、ブラック・ジャック先生。と死神の化身は笑って見せた。
 その時から、勝負はすでについていたのだが。
 手術を終え、手術患者がICUへと移送される。歓喜の声があがっていることから、その結末は知れた。
 安楽死医は無言で踵を返す。
 その背に、聞きなれた男の声がぶつけられた。
「キリコッ!!」
 術衣姿の天才外科医であった。
 安楽死医が振り返ると、その鼻先に妙なものを押し付けられる。
 それは、天才外科医の携帯電話。
「………何?先生」
「…ラインに…既読をつけろ…」天才外科医は言った。「俺は、寝る」
「は?」
 携帯電話を受け取る前に、天才外科医はずるずるとその場に崩れ落ち、そしてあろうことか、病院の廊下の真ん中で高いびきをかくのであった。
 いやたしかに、あれほどの手術を長時間こなしたのだ。気力が尽きるのも道理だろう。
 だが、しかし。
「ちょっと、先生…これじゃあ、ギャグマンガだぜ?」
 高いびきの天才外科医の横。死神の化身も床に座り、そして携帯電話を見る。
 なるほど、と思わず死神は笑った。
 携帯電話の画面は、ラインの通知がたくさんあることを知らせている。
「既読を、つけろ…ね」
 アプリケーションを起動させる。
 たくさん書き込まれている少女からのメッセージ。
 ”俺は、無事だ”と同等の”既読”の二文字。
 少女を安心させるための。
「相変わらず、お嬢ちゃんに甘い先生だね」
 死神は、高いびきの天才外科医の寝顔を、携帯電話のカメラで撮影する。
 そして、その画像をラインに投稿してやる。
 お嬢ちゃん、先生は、元気だよ。
 そう、メッセージも添えて。


-終-

2014.1.6 コウ

※だから、どうしても出てくるのですよ、キリコ先生が(笑)、