きっと無駄。
洗物の手を止めて、洗濯物を干している最中に、スーパーで林檎を選んでかごに入れてから。
そう、自分にいいきかせながら、少女は、携帯電話のディスプレイをタップする。
何も変わりのない画面。
通知領域にそれを知らせるアイコンは、ない。
それでも。
緑色のアイコンを、少女は小さな指でタップする。
分かっている。そう言い聞かせる。自分自身に。
起動したアプリケーションの画面は、何度見ても代わり映えしない。
あるのは、少女が入力した文字列。
他愛の無い短いコメントが、並ぶだけ。
そのコメントに返信してほしいなどとは、思ってない。
ただ欲しいのは、そのコメントの横に『既読』の二文字。
読んだ証拠である、その二文字だけで。
ただ、それだけ。
そのアプリは、少女が半ば強引に、天才外科医の携帯電話にインストールした、LINE。
そのアプリを使用して、少女は天才外科医へとメッセージを送り続ける。
別に、返信しなくてもいいよのさー。
読んだら”既読”って表示されるから。
ちぇんちぇいが読んでくえたってわかるからー。
天才外科医がメッセージを読んでくれたと分かるから、インストールしたアプリケーション。
それが今、こんなにも、恐い。
大丈夫。ただ、読んでいないだけ。
忙しいから、読んでいないだけ。
言い聞かせる少女は、手を止めていた家事を再開させる。
□
もしかしたら、永遠に終わらないのではないかと、その場に居合わせた医療人は恐怖を覚えた。
唯一人、そのざわめきの中で皮肉に笑う白銀髪の男は、無言で待ち続ける。
何故なら、慣れているから、だ。
半日はとっくに過ぎた。
器械出しの看護師は三人交代した。サポートの若い医師は、崩れるように倒れた。
それでも、執刀医である天才外科医は顔色一つ変えずに、全神経を研ぎ澄まし、手術野を見詰めている。
神の手と称されるそれは、人間のものとは思えぬような微細な動きをし続け、まるでよくできた映画のよう。
安楽死を望む女性が呼んだ死神の化身は、その女性の息子が呼んだ天才外科医と鉢合わせとなった。
この程度の病状で殺すつもりか。
天才外科医の憤りに、じゃあやってみせろよ、ブラック・ジャック先生。と死神の化身は笑って見せた。
その時から、勝負はすでについていたのだが。
手術を終え、手術患者がICUへと移送される。歓喜の声があがっていることから、その結末は知れた。
安楽死医は無言で踵を返す。
その背に、聞きなれた男の声がぶつけられた。
「キリコッ!!」
術衣姿の天才外科医であった。
安楽死医が振り返ると、その鼻先に妙なものを押し付けられる。
それは、天才外科医の携帯電話。
「………何?先生」
「…ラインに…既読をつけろ…」天才外科医は言った。「俺は、寝る」
「は?」
携帯電話を受け取る前に、天才外科医はずるずるとその場に崩れ落ち、そしてあろうことか、病院の廊下の真ん中で高いびきをかくのであった。
いやたしかに、あれほどの手術を長時間こなしたのだ。気力が尽きるのも道理だろう。
だが、しかし。
「ちょっと、先生…これじゃあ、ギャグマンガだぜ?」
高いびきの天才外科医の横。死神の化身も床に座り、そして携帯電話を見る。
なるほど、と思わず死神は笑った。
携帯電話の画面は、ラインの通知がたくさんあることを知らせている。
「既読を、つけろ…ね」
アプリケーションを起動させる。
たくさん書き込まれている少女からのメッセージ。
”俺は、無事だ”と同等の”既読”の二文字。
少女を安心させるための。
「相変わらず、お嬢ちゃんに甘い先生だね」
死神は、高いびきの天才外科医の寝顔を、携帯電話のカメラで撮影する。
そして、その画像をラインに投稿してやる。
お嬢ちゃん、先生は、元気だよ。
そう、メッセージも添えて。
-終-
2014.1.6 コウ
※だから、どうしても出てくるのですよ、キリコ先生が(笑)、