「暑いね、先生」
「…降りろ死神。貴様の医院と私の家は別方向だ」
「つれないねえ、先生。俺も久しぶりの帰国だし、久しぶりにお嬢ちゃんの手料理を…」
「殺すぞ、貴様」
物騒な科白とともに、ぎらりと光る医療用メスを死神の喉元に押し付ける天才外科医の殺人鬼のような様を、運悪くバックミラー越しに見てしまったタクシーの運転手が思わず通報してしまったのは、職業上責められない話しであろう。
昨日はコタツが恋しいほど寒かったのに、今日は半袖でちょうどいいほどの暑さ。
カキ氷でも作ろうかちら。
そう少女が思っていたら、半月ぶりに天才外科医が帰宅した。
いつもの黒い外套に、いつもの黒のアタッシュケース。
いつもと違うのは、天才外科医の後ろから「よう、お嬢ちゃん」と死神の化身が入ってきた事だ。
「かえりなちゃい、ちぇんちぇい。いらっちゃい、ロクター」
「帰れ、死神」
「土産を渡したら帰るよ」
苦笑しながら、死神は勝手よろしく真っ直ぐにリビングへと向かい、ソファーへと身を沈める。
憮然とした表情で、天才外科医は、自分の定位置となるソファーへと座った。
清潔感のあるソファーは、購入から結構な年月がたっているにも関わらず、染み一つなく、微かに花の香りもする。
それは、留守中に少女が手を抜くことなく家事をこなしてきた証拠だろう。
その少女は、天才外科医のコートやなんやらを片付けるのに、くるくると小動物のように動き回っていた。
やがて片づけが落ち着いたようで、少女は汗を拭いながら台所へこもると、今度は丸いお盆に麦茶を淹れたガラスのコップを三つ持ってきた。
「はい、ロクター、どうちょ」
「じゃあ、俺からも、コレ」
「ピノコに如何わしいものを渡すな」
麦茶を淹れたコップを少女が手渡すと、死神は受け取ってから、小さな薄いケースを少女へと差し出した。
「如何わしいって、先生」死神は大袈裟にため息を吐くと「お嬢ちゃんが欲しがってた、"ホビットの冒険"のブルーレイだよ。映像特典が日本版だとつかないんだと」
「覚えててくえてたの!」
嬉しそうに笑って、少女はそのブルーレイのケースを胸に抱き締めて「あいがとう!ロクター!」
「お嬢ちゃん、英語の翻訳だったら、いつでもするぜ」
「うるさい。それぐらい、私がする」
麦茶をぐびっと煽ると天才外科医は「ピノコ」と、それを差し出した。
あまりに素っ気無い素振りで差し出してきたのは、あまりにその態度にはそぐわない愛らしいもの。
天才外科医の掌に収まるほど小さな籠であるその中には、淡い桃色の花や白く細やかな小さな花たちが、鮮やかに飾られている。
プリザーブトフラワーであった。
その籠に収まっている花は、この5月の第二日曜日であれば、世界各地で売られている、花である。
「可愛い、カーネーションとかすみ草!」
少女は両手でそれを受け取ると、大地色の瞳をきらきらと輝かせて、微笑んだ。「あいがとう!ちぇんちぇい」
「空港で売っていたんだ」
表情を変えずに天才外科医は答えると、立ち上がり自身の書斎へと向かう。
ぱたん。扉が閉まれば、死神が小さくため息を吐きながら、言った。
「…なにも、今日、カーネーションをお嬢ちゃんにあげなくてもなあ…」
死神の呟きに、少女は笑って首をふる。
「ううん、いいの。ピノコ、うれちいもん!」
「でもなあ…」
「そえに」少女は言った。「分かってるの、ちぇんちぇいがコレをくれた理由。ちゃーんと、わかってゆんだから!」
手に収まる小さなカーネーションに添えられた想い。
彼からの、感謝の告白。
「さすが、お嬢ちゃん」
死神の化身の科白に、少女は「当然!」と胸を張る。
「らって、ピノコはオクタンらもん!」
必ず天才外科医が返ってくる、岬の家。
ここに住むことを赦され、ここの守りを任されている、唯一人の少女なのだから。
-終-
2013.5.12 コウ