南瓜を模した短パンを縫う、助手の少女の手元を眺めながら、いつからハロウィンは日本の行事になったのだろう、と天才外科医は考える。
元々、ハロウィンとは、欧州の風習であり、本来は聖夜の意味であったはずだ。
ハロウィンは、古いケルト人(ドルイド教)の祭りで、ケルト人の暦で1年の最後の日にあたるは10月31日はであり、死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。
これらから身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていたのだという。
ケルト人にとってこのハローウィンの一晩だけは、地上をうろつく悪霊たちをすべて動物に移しかえて追い出すことができる夜と信じられていた。
現在、キリスト教では11月1日は万聖節である。
ハロウィンはその準備の前夜祭となり、古いケルトの習俗をキリスト教文化に取り入れた祭りの一つである。
アメリカに移ってからは、おもに子供の祭りとしてにぎやかに騒ぎ、御馳走を食べる収穫の祝いの行事となっていった。
しかし、そんな由来や理などは当然この島国には輸入されておらず、この神聖な行事はクリスマスの二の舞を踏んでいるように思う。
つまり、日本人の幼児が、クリスマスを”サンタクロースからプレゼントを貰える日”という認識であると同様、ハロウィンも”仮装してお菓子を貰い歩く日”としか認識されていないのではなかろうか。
まったく祭り好きな日本人らしいと言えば、そうなのだが。
「ちぇんちぇい?」
少女の声に、天才外科医は思考を中断し現実に戻される。
いつの間にか、少女が手を止めて見上げていたのだ。
その大きな大地の色をした瞳が、大きく瞬いた。
「なんだ?」
「ちぇんちぇい、はい」
「はい?」
「煙草の」
少女が差し出してきた灰皿をみて、天才外科医は「ああ」と思い当たり、咥えていた煙草の灰を灰皿に落とした。
気がつけば、煙草の半分が灰になる時間ほど、思考に集中していたようだ。
少女は、軽く息を吐くと、今まで作成していた、南瓜を模した短パンを自分の目線まで持ち上げて「じゃん!」という効果音を口で発しながら、天才外科医に見せつける。
「かわいい?ちぇんちぇい」
「……それを穿くのか?」
「うん!」少女は、今度は自分の下腹部にそれを当てて「こえ穿いて、あとは魔女の帽子をかぶゆの」
「…そうか」
風邪をひかなければ良いが…と内心、天才外科医は危惧するが、少女は「そえでね」とそんな危惧を他所に話を続ける。
「そえでね、ちぇんちぇいは…いつもの黒いスーツに、このマントをちゅけて、この牙をちゅければ、完成らから」
「何が、だ」
「あ、べちゅに、ちぇんちぇいが、ドラキュラっぽい格好だってわけじゃないよのさ!」
「だから、何が、だ」
嫌な予感がする。
「えへへ」少女は笑って、用紙を見せる。「こえ、ろくたーが代筆して、だしたのよさ」
少女が手にいていた用紙は、町内合同ハロウィン仮装パーティー参加者名簿であった。
■■■
代筆ではなく、これは立派な偽造罪ではなかろうか。
天才外科医は、少女と歩きながら、忌々しい死神の化身の顔を思い出し、怒りを熟成させていた。
10月末日。
いつもはうるさいぐらい鳴る依頼の電話も、依頼の手紙も、依頼のメールも不思議なほど入らない、穏やかな10月最後の日に、天才外科医は少女と町内会の行事に参加していた。
行事内容は、様々な仮装をした6人一組のグループ、計30グループが、町内の要所要所に置いてあるスタンプを押して歩く、ウォークラリー方式。
ハロウィンと銘打つには、程遠い企画であった。
だが、いつもなら布団の中であろう時間に、堂々と夜の世界を探検できるとあって、子どもたちは実に楽しそうに参加していた。
少女も、その一人だ。
チェックポイントで焼かれていた、五郎島金時を頬張りながら、同じグループの中学生の女の子とおしゃべりをしている。
周りを見ると、結構な人手で、夜の時間にも関わらず、賑やかな夜のウォークラリーであった。
まあ、悪くない。
少女のお芋を頬張る姿をみながら、天才外科医は思う。
「あなたも、お一つ、どうぞ」
「ああ、どうも」
不意に、熱々の焼き芋を差し出され、天才外科医は礼を言いながらそれを受け取った。
差し出してきたのは、西洋の喪に服す女性に扮した人だった。黒いベールで表情までは伺えない。
「賑やかな夜ですね」女性は、穏やかに話しかけてきた。「誘われて参加してみましたが、とても楽しくて」
「ウォークラリーとしては、楽しいかもしれません」
芋を一口齧りながら、天才外科医は答えた。芋の甘みが口の中に広がる。これは、旨い。
「ピノコちゃんの為でしたら、参加なさるのですね」
女性の言葉に、答えなかった。
それは、わざわざ他人に言われるべきものではない。
その沈黙をどう受け取ったのか、女性はクスクスと笑い出し、天才外科医は、尚更不快感を強めた。
「いえ、ごめんなさい」
女性は、やはり笑いながら、愉快そうに言葉を続ける。「安心したんです。とても、あなたにもそんな心の余裕が---」
「あなたには、関係のないことだ」
言葉を総て言わせず、天才外科医は凛とした声で発した。
それは、誰であれ触れては鳴らない禁忌であった。聖域であった。
他人如きが踏み入れては決してならない、領域なのだ。
「その通りね」
だが、その乱暴とも言える言葉の振る舞いを、女性は一言で流した。
それは見事に、空気ごと、あっさりと。
「本当に、よ---」
「ちぇんちぇい!」
女性の声に覆いかぶさるように、少女が天才外科医の方を振り向いて声をかける。「ほら、次のポイントらよ!」
「ああ、そうだな………」
少女の姿を視線に収めた瞬間、天才外科医は、気付いた。
自分は最後尾にいたことを、思い出したのだ。
そして今、当然の如く、自分の傍らは、無人であった。
女性など、初めからいなかったように。
他の町内の人間であったのだろう。
そう、天才外科医は先ほどの女性のことを、結論付けた。
現に女性は「誘われて参加してみた」と言っていた。
あれだけ話しかけておいて、唐突にいなくなるのは、礼儀を知らない人間だとも思えたが。
「ちぇんちぇい」
きゅ…と少女は彼の手を掴む。
帰り道。人通りのほとんどない岬への道路を、天才外科医と少女は歩いていた。
「ハロウィンって、死者が歩いたりするんだよ」
「そうらしいな」
「あのね」
少女は言った。
「ちぇんちぇいのおかあさんも、きっといっしょにいたとおもうよー」
微かに聞こえる波音と、少女の言葉が、緩やかに混じり溶けるような気がした。
ああ、と彼は思う。
だから、少女は自分をこの行事に参加させたかったのだろう。と。
「いたかもしれないな」
小さく、笑いながら天才外科医は答える。
予期せぬ言葉に、少女は多少驚きながらも「そうだよー!」と満面の笑みを湛えていた。
-終-
2010.10.24