君と飲む、温かな飲み物


 時刻を言えば、真夜中と言うよりも明け方に近い頃。
 美しく整えられた寝具は、ここ二日程人を休ませることが無く、代わりと言ってはだが、寝具のすぐ横に備えられている、黒檀の文机は、この部屋に逗留を決めた宿泊客が入って以来、常に使用され続けている。
 英語交じりの日本語で書かれた簡素な手書きのカルテ。プリントアウトされた胸部レントゲン写真。畳の上に置かれたノート型のパソコンは大きく開かれ、そのモニター部には、事細かな数字の羅列があり、人体組成部分を数値化したものであった。
 男は医師であった。
 神の手とも奇跡の腕とも称される反面、悪徳無免許医とも囁かれる彼は、それでも後を絶たぬ依頼患者の下を訪れる。
 地元公立病院の医師も、医科大学病院の権威も匙を投げた、難治性疾患。
 それでも、医師は手術日を決めた。
 患者の生きたいと言う、強い意思を信じ、そして受け取って。

 ふと、喉の渇きを覚え「ピノコー」と無意識に名前が口を出た。
 呼ばれた名前は本人に届くことなく、すぅと室内に霧散する。
 ああ、そうだった。彼は嘆息して、ルームサービスを呼ぶ為に受話器を手にする。
 思えば、今、留守番をしている助手の少女は、実に良いタイミングで珈琲を持ってきてくれていたのだと、今更のように気づく。
 それは長年共に連れ添った故のものであるのだろうが、そのような些細なことが、己のコンディションに深く関わるのだと改めて思う。

 あの温かな、淹れ立ての珈琲。
 その豊かな香りと味を知ってしまえば、缶コーヒーを飲むことさえも敬遠しはじめてしまった。
 昔は飲み物であれば、何でも構わなかったのだが。
「贅沢になったな、俺も」
 小さく呟いてから、彼はもう一度目の前に広げられた患者のデータに目を通す。
 ドアがこつこつと叩かれ、ルームサービスが珈琲を持ってきたことを、告げた。





 夕食後。後片付けも済み、テレビでくだらないお笑い番組を見て爆笑する少女の前に、彼はことりとマグカップを置く。
 少女が愛用している、白地にピンクのハートが無数に描かれた、マグカップ。
 湯気を燻らせるマグカップを、少女は少し眼を見開いてから、両手で抱え込むように掴んだ。
 そして、ふうふうと息を吹きかけながら、ゆっくりと中身を飲む。
 それは少女の好きな、ホットチョコレート。
「おいしい!」少女はにっこりと笑って「ちぇんちぇいが淹れてくれたから、とってもおいしいよのさ!ありがとー!」
「たまには、な」
 彼は、自分のマグカップに自分で淹れたインスタントコーヒーを啜りながら、少女の隣に腰掛ける。
 すぐに少女は、彼の傍へとにじり寄ってきた。
「温かい飲み物を淹れてもらえるなんて、ピノコはちあわちぇものなのよさ」
「大袈裟だな」
 素知らぬふりでそう答えながらも、彼は知っているのだ。
 好きな相手から、温かい飲み物を淹れてもらえる、その幸福感を。



-終-

2013.11.25 コウ